コーヒーことはじめ
コーヒーを飲むのが好きで、一日に何杯かは飲む。家では直火式のエスプレッソメーカーを使って濃いめのコーヒーを入れる。ミルでゴリゴリと豆を挽き、コーヒーがはいった時の蒸気の音に耳をすませ、キッチンに芳しい香りが広がる瞬間には、その時間が特別なものに思えてくる。気を良くして、時々良い豆を買ってきたり、わき水を汲んできたりして、ちょっとした贅沢を味わったりもする。
いつからコーヒーを飲むのが好きになったのだろうか。一番最初にコーヒーを飲んだ記憶は散々たるものだったことは思い出せる。苦い、苦すぎる。なぜこんな渋くて、どす黒くて、すえたにおいのものを、大人は好むのかと訝しがった。
それは、幼少の頃、九州の祖父に連れられて喫茶店に行き、普段は会わない祖父の前で、「あ、僕はブラックで」と強がった時のことだった。両親はコーヒーをブラックで飲んでいたので、それが大人のしきたりで、自分の通るべき道なのだと意気込んだ。
強がった手前、後には引けない。祖父も、祖父の顔見知りの客も、喫茶店のママもが、固唾を飲んで、僕の動向を見張っている、ような気がした。一口飲んでも二口目へと進まない。勝手に作ったプレッシャーで身が縮こまり、我慢を重ねて、ほんのちょっとずつ口を付けるしかなかった。
途方に暮れているところ、「砂糖やミルクも入れて良いんだよ」と祖父に言われたのは、まさに助け船だった。「なるほどね、そういうのもあるのね」、とクールさを装い、ドバドバとミルクを入れ、どっさりと砂糖を入れる。そして、「んー、これも悪くないねー」などと、さも分かったような物言いで、その場を切り抜けたような気がした。
コーヒーを飲むと、時々そのことを思い出す。なんて可愛げのない、見栄っ張りな子どもだったのだろうかと、恥ずかしくなる。しかも、今もそのような要素を自分の中に見いだすことができ、げんなりする。何の加減か分からないけれど、コーヒーがいつもより苦く感じられるのは、記憶のコーヒーの苦々しさなのかもしれない。