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何を見ても何かを思い出す

『何を見ても何かを思い出す』というヘミングウェイの小説がある。彼の生前に発表されなかった小説だと、その本の表紙に大体的に喧伝されていた。10数ページの短い小説。学生の頃、何気なしに読んでみたが、僕の中に特に印象はそれほど残らなかった。けれども、その題名だけは、なぜだか心の中に残り続けた。

思い出していることがある。自分の中の記憶を探るのは妙だ。今の自分という枠組みを抜きにして、かつてあった出来事を捉えることは出来ないからだ。かつての自分の挙動とか、感情とか、そんなものの審議や、その正否の確認を現在の自分がどうしても行ってしまう。
そんな作業をする意味があるのかと常に考えてしまう。現在という時間が流れていながら、自分の脳みそを常に過去の中に浸し続けるのは、一体どういうことなのだろうかと、何度も何度も自問自答する。
そんな自問自答も飽きてしまった。もう何百万回と繰り返しただろう。けれど、結局僕は自分を語る際に文字に起こすことが一番上手くいくのであって、その文面に現れるものの大半は過去と強く結び付いている。そして、それを形にすることが自分にとっての強い欲求となっていることにも気が付く。
そう感じてしまっているのなら、そういうことなのであって、そこに何故とか、どうしてとか、疑問を挟むと、そう感じてしまっている自分への自己嫌悪と自己否定に苛まされる。
早く出せ、早く出せという、内側からのプレッシャーを感じることもあるし、そのプレッシャーが自分に向かっているのか、外に向かっているのか、どちらを向いているのか全く分からず、感覚がマヒしてしまう。
そうなるともう駄目だ。自分が生きている感覚が働かなくなり、ほとんどの日常生活などに価値を見出すことが出来なくなる。食事はおろか、喉の渇きすらどうでもよくなり、意識だけがクリアに現れる。眠気はほとんど訪れず、睡眠薬での人工的な眠りに落し、ドロリとした身体感覚ばかりになる。そして、もう死ぬしかないと心が訴えかける。
針金ハンガーを丸める。一本では弱すぎるので三本か四本を広げて首が通るサイズにする。これが母のやり方だ。最後はハンガーに自分のすべてを預ける事が出来るのか、と13歳の冬に知る。

天窓のついたキッチンに午後の光が差し込む中、父の手製のキッチン棚から母はぶら下がっていた。楕円の穴がたくさんあいた黒いスチール材を組み合わせて作り上げた大型のキッチン棚。他の家では見ることもない、ほとんど城塞なのではないかとも思える大きな一つの装置のように、それは存在した。
キッチンの高い天井に合わせて、ロフトのように頭上高くにものが置けるようにもなっていた。背の低い母が使えるようにと梯子も設えていた。またその一部は食器棚にもなっており、黒いスチール製の天板が何枚も何枚もはめ込まれた部分もあった。
おおよその素人仕事で作り上げられた構造物にあるように、ごてごてとした作りで、必要以上とも思える、つっかえ棒をかませ、はすかいを入れ、ロフトの梁の強靭さを作り上げていた。
西向きの我が家の日中は大体において暗い。80年代に造成された住宅地の一角の家で、隣家との間は狭く、大して光が入ってこない。その暗い室内に光がさんさんと天窓から注ぎこむ唯一の場所がキッチンだった。それは曇り空の雲の切れ目から階段のように降りてくる光のたまり場のようだ。
晴れた日にはロフトの上に柔らかく日がさし、気持ち良かった。キッチンに母がいない時はそこに上がって、干された植物やら乾物やら油の缶やらの間に挟まって寝ころび、天窓のすりガラスから入り込む淡い光を眺めながら漫画を読んだりした。
そんなロフトの梁に、ある年の冬の日、母は命を預けたのだ。ちょうど試験期間中だったか、その日は早い帰宅の日だった。試験勉強なんてほったらかしで友人と家で遊ぶつもりで家に帰った。母はどうせ外出していると思い、玄関からすぐに二階の自室に向かった。
いつもこの時のことを思い出して、胸が締め付けられる。どうして、すぐに二階などに、自室などに、向かってしまったのかと。もしかしたら、色々なことが違ったのかもしれない。その時玄関からリビングに入れば、オープンキッチンは丸見えなのだ。けれど、僕はそうしなかった。そんなにテレビゲームが大事だったのか。何も起こっていないとでも思っていたのか。
その日の朝、母が僕を見送った時の表情は覚えていないのか。その日の朝、母は僕に何を食べさせたのか。その日の朝、父と母は仲よくしていたのか。
何も覚えていない。何も思い出すことが出来ない。けれども、何らかのサインがあったはずなのだ。何らかの仕草があったはずだったのだ。それはその日以前からもずっとあったはずなのだ。けれども、それは日常の中に溶け込み、ことが起こらない限り、そんなことに気が付きもしないのだ。
僕と友人の帰宅後、弟が帰ってきた。二階から騒がしくテレビゲームの音が聞こえたからか、弟は二階に上がってきた。いや、上がってこなかったかもしれない。僕はテレビ画面ばかりに注意が向いていた。画面の中では二人の男が平面の中で殴り合ったり蹴り合ったりしている。時においては、謎の閃光が地を走り、空中を駆け、相手を倒すまで続けられるゲームだった。
いや、倒れて終わりという訳ではない。プレイヤーである僕たちは、倒れたり倒されたりし、いつまでも果てなく繰り広げられた画面上の死闘でアドレナリンに沸き立ち、時間の経過も空間で起こっていることに気をまわしていない。ただ覚えているのは、画面の中の血しぶきであり、スピーカーから漏れるうめきだったりした。そして最後に弟の「お母さん下にいるよ」という言葉だ。

ここまで思い出すと、不謹慎な滑稽さも少し覚える。僕は親がいない間にこっそりとするテレビゲームに興奮していた。背徳的な感情なのか、親の言いつけに背くスリルなのか、そんなものをない交ぜにした感覚があったのだ。けれども、弟の言により母は階下で音もたてず二階で繰り広げられている子どもたちの動向を探っていたのだと、思い込んだ。
やばいばれた、という思いを持って、階下に降りながら言い訳を募ろうとした。

何が起こっているかはすぐに分かった。何か駄目なことが起こっていたのだ。弟はそれを認識していたかは分からない。あまりにも現実から乖離したその風景は異様だった。その瞬間まで持っていた、秘め事がばれてしまったと慌てふためきと、目の前で起こっている事とのあまりのギャップを受け入れられなかった。
どれだけの時間立ち尽くしていたか、どれだけその午後の光の中に浮いている母を見ていたのか思い出すことはできない。弟が「いるやろ」と言った気がする。一緒に遊んでいた友人も階下に降りてきたかもしれない。いや降りてきていないかもしれない。けれど、弟を玄関まで連れ出し、ここにいろと言ったような気がする。
思い出す風景はすべてスローモーションとなる。玄関を出て、家の敷地に上がる階段を駆け下り、家の前の道路をまっすぐ下っていく。一緒に遊んでいた友人の家のチャイムを押し、インターフォン越しに友人の母親と話す。何を伝えたかは思い出せない。何をその時言ったのだろうか。
友人の母親と家に急いで戻る。風景は変わっていない。宙に浮いた母の姿。何本も束になったハンガーが首に食い込んでいる。それはハンガーだった。ハンガーで人は宙に浮く、そんな馬鹿なとしか思えない。
友人の母親の「貴子さん!」という普段聞くことのない絶叫とも悲鳴とも聞こえる声のトーンが耳をつんざく。やっぱりとんでもないことが起こったのだ。やっぱり思った通りのことだったのだと、その時になって分かってくる。
119番に電話をした。母が首を吊っている、と玄関脇の電話を使って叫んだ様な気がする。起こった出来事が人から人へと伝播していく。伝播するたびに物事に現実感が帯び始める。当初、何か良く分からなかったものが、人に伝えられるごとに実感が募り始める。けれど、これは嘘だ、起こったことではない。何でもないことだとも思い続ける。救急車に運ばれたら何でもなかったかのように母とまた会える、そんな風にも思っていたか、思い込んでいた。まだまだ現実的にはなれなかった。
けど、あんなに青白かった。あんなに無反応だった。体がだらりとしていて、友人の母親と一緒に母を床に下ろす時その体はとても重かった。母は40数キロしかないんだ。小柄で華奢でやせぎすだったのだ。それが、そんなに重いはずがない。これじゃあまるで、まるでただの何かの塊だ。母の形をした何かでしかなかった。

どれほどたってからか、救急車が来た。けたたましいサイレンだった。それまでにも救急車を家によんだことはあった。あの時も震えた。けれども、その時の震えとは違う震えだった。あの時は父がリビングで暴れまわったが、母は母だった。けれども今は母は母ではなくなっているかもしれないのだ。
救急隊員が家にあがりこんでくる、何か言われた様な気がする。覚えていない。何かを話して、もう駄目だ、もう駄目だと涙が出た。僕は救急車で同行しなかった。母一人だけが連れて行かれたのかもしれない。母がいなくなって、その時起こった出来事がまた少し非現実的になった。
今度は刑事が来た。私服の人たちだった。制服を着た警官ではなかった。薄暗いリビングに立ちながら、何か心当たりはないかと聞かれた。あれだこれだと思いつく限りのことを話した。まったく見当違いの事も言ったような気がする。けれども、何を話した所ですべて憶測でしかない。そんなことは分かっていた。けれども刑事たちは神妙な顔つきで手帳にいつまでもいつまでも、僕が言うことを書きとめていた。
もうこの時点でもう自殺がなされ、そしてもう母は死んだ事になっていたはずなのだ。死亡推定時刻のようなものも聞かされた。君が帰った時間にはもう亡くなっていたんだよ、などと慰められたような気もする。けれども、全然そんな風に、母が死んでるなんて思えなかった。きっと病院に着いたら何らかの処置がなされて息を吹き返すのだと思い込んでいた。
時間感覚がもう分からない。もしかしたら刑事が先に来て、明るいキッチンの床から薄暗いリビングの床に移された母を横に、話を聞いていたのかもしれない。そんな風に覚えているふしもある。何も定かじゃやない。

町中の病院の地下の霊安室。白い蛍光灯に照らされ、白いシーツを着せられた、白い顔をした母が横たわっていた。仏壇前に飾るような妙なぼんぼりがいらだたしい光を放っていた。
何時間そこにいたのか覚えていない。どうやってそこまで行ったのかも思い出せない。確か弟と一緒だったような気がする。誰かに保育園から連れてこられた妹もいたような気もする。随分と長いことそこにいた。それだけは確かだ。
誰かが一緒にいてくれた気もするし、兄妹三人だけだった気もする。病院の売店で妹にジュースを買ってやったような記憶もあるけれど、それは別の記憶かもしれない。暗く長い廊下があって、この場所に閉じ込められたのではないかとさえ思えた。
げっそりした父親が霊安室に来たのはもう夜遅くだった。誰が父に連絡をしたのだろうかと思った。そういえば、病院に連れ添ってくれた誰かが、もしかしたら看護師だったかもしれない、お父さんは今日は名古屋に出張しているから、来るのが遅くなると言われた。
何を言えば良いかもわからない父との対面もそこそこに、父が一人にしてくれと言い、僕は霊安室から出たのを覚えている。初めて聞く父の泣き声を扉越しに聞いた。長い長い時間を霊安室わきのベンチで過ごした。
家に帰ると、誰かが家の片づけをしていてくれた。そして、少しずつ人が集まって来ていた。近所の人や、父の友人や母の友人たちが出たり入ったりしていた。母が最後に炊いていた五分突き米がジャーの中で干からびていたのを、誰かがおにぎりにしてくれた。お母さんが炊いたご飯だよと言われて食べた。母の食事には複雑な思いを持っていたけれども、これが最後なのか、これが本当に最後なのかという思いが湧きあがってきた。

調べれば分かるのだけど、母の通夜がいつ行われ、葬儀がいつ行われたのかを思い出せない。その死んだ日の翌日だったのか、翌翌日だったのか。火葬場の状況で日をずらした様な覚えもするが、もしかしたらそれは父が死んだ時のことだったかもしれない。同じような事がもう二度と起こってほしくないと、母の死後思ったのだけれど、同じことが父にも起こったので、記憶が色々な所で混濁している。
死亡診断書をもらいに行ったのは父の時だったのか、それとも母の時だったのか。警察署に呼び出されたのはどっちの時だったのか、遺体を家に連れ帰った時雨が降っていたのはいつだったか。同じ死に方をした人たちが、同じ家で死んで、同じように通夜と葬儀を家であげた。それらの記憶の境界線が曖昧になって来る。
多くの人が家の前に集まり、家の玄関から入ってもらい右に折れ和室に入ってもらう。床の間の前に棺を置き、棺の中に献花をしてもらう。僧侶はよばず、お経もない儀式。来た人来た人のやり方で弔ってもらうスタイルだ。
次々に知った人や見知らぬ人の顔が僕の前を通り過ぎる。そして、献花を終えた人たちが和室の窓を取り外した窓枠から庭に降りていく。そう彼らは死んだのだ。人々が置いていった花をとおして少しずつ理解した。
現実感がない、というのがその当時の感覚だったと思う。それは、多分僕だけの感覚でもないだろう。弔問者皆、あっ気にとられていた所もあっただろうと思う。それは、本当にそうなのだ。
僕も弔問する立場になった時そうなったのだ。瞬間最大風速的な悲しみと怒りがやって来て、その後は起こった出来事に気持ちがついて行くことが出来なかった。
それが自ら死を選んだ人たちが残していく影響力なのかもしれないし、もしくは僕がただただそう思っているだけかもしれない。さらに言えば、人の死を認識するといのはそういうことなのかもしれない。何を言っても一般論を超えることは出来ないのだが。

何を見ても何かを思い出す、そんなセンチメンタルな時間の過ごし方ばかりしているわけにはいかない。そんなことは分かっている。けれでも、どうしてもどうしても内側から溢れだし、その記憶が自分の心を占めてしまう。
ヘミングウェイの小説は、死んだ息子のことを父が思い返している話だったような気がする。学生時代には分からなかった事が今は少し分かる。言葉にして初めて理解できることが、記憶や体の中にある事を今は感じる。分かったことから僕自分を変えていくしか今はない。彼らは自ら死んでしまったけれど、僕は死んではならないのだと、思っている。
 

ある正月

一時退院を終えた父を病院に見送りにきている。浮かない表情をした父が最後の悪足掻きと、病院の正面玄関脇の喫煙所に入ろうとする。早春の夕日に照らされた灰皿の網がきらめいていた。
僕も父に続いて喫煙所に入り、「どうやったシャバの空気は?」とちょっとからかうように尋ねながら、後ろ目で一緒に来ている弟と妹の様子をうかがう。上着のポケットに手を突っ込んで突っ立った二人の黒いシルエットが見えた。
「んー、まだ病院に戻っていないから分からない」と言い終わると、せき払いをして、タバコに100円ライターで火をつける。
「けど、もうほとんど病院やん」とおどけて僕は返答するが、父は黙ってタバコを吸い続けている。その表情を見ながら、もうちょっと深刻な顔をするべきだろうかと迷うが、気の使いすぎだと思い直す。
「また、花折さんとか、飯田さんとかが待ってるやん。センセイが帰ってきたって喜んでくれるで。それに、この二日間安定してたし、そんな遠くない内に退院やで」
「んー、けどまたあのキチガイの世界に帰ると思うとうんざりする。お父さんはそもそも問題ないんだ・・・」
いつもの通り、語調の強いフラットな九州アクセントで喋っているが、どこか弱々しさが残る。そういえば病院までのタクシーの中ではなにやら感傷めいた物言いをしていた事を思い出す。
「それに、あの藤田ってエリートづらしたあの医者が嫌だ。市橋先生はどうしてるのかな」
病院に戻って、以前から父の病院への不満がわき出始めたので、今度は僕が黙ってタバコを吸う番となる。父がもう一本タバコに手にかけたところで、表から弟の声がした。
「親父、兄貴、もうそろそろ時間やで」
病院に戻る約束の時間ぎりぎりになっていた。今日のところは父とのかみ合わない話から解放されると知り、胸をなでおろす。
話がかみ合わなくなっている。時々、もしかしたら精神病院の閉鎖病棟に入っている父がおかしいのではなく、自分がおかしくなってきているのではないかとさえ思うことがある。

病院からタクシーでワンメーターの駅まで出る。そこから奈良と京都を結ぶ電車に乗って京都駅へ。京都駅から山陰地方に繋がる線へと乗り換え、一駅。
病院から自宅まで1時間弱。それほど長い道のりではない。けれども2ヶ月近くに渡って通い詰めているとさすがに骨が折れる。
「ホンマにしんどかった」
京都駅のホームで妹がつぶやく。目に見えて今回の父の一時退院に疲れを表情に滲ませている。弟もそう見えるし、きっと僕もそんな顔をしているのだろう。
「スーチャンは大丈夫やった?」とモモコがスグルに問いかける。
「いや、俺は大丈夫」
「俺は疲れた、あーー」
と僕は大げさに頭をかき、それからホームに向かって前屈をしてから背筋を伸ばし、続ける。
「けどまあ無理ないで、入院して初めてやったし」
「そうやな、さすがに緊張したわ」とスグルが表情を緩めて感想をもらした。
電車の到来を告げるアナウンスがホームに響きわたっている。
駅のアナウンスは本当にストレスフルだ。何でこんなに大きな音で案内をする必要があるのだろうかと、いらいらしてくる。
「モモコはどんな感じなん?」
妹は唇を軽く噛みながら、言葉を探っている。
どんな感じ?それはとても難しい質問だ。きっと僕も同じように質問されたら困ってしまう。言葉にならない言葉を作り上げようとすると、さらなる疲れが募る。
ホームに電車が滑り込み、乗っていた人たちが向かいのホームに降りていく。皆うつむき加減に足早に歩き去っていくように見える。妹の答えを待つことなく乗車の時間となった。

家族のだれもが緊張状態であり、家族の誰もがふぬけのような状態でもあった。異様なテンションが満ち満ちて、時間や空間を飛び越えるように日々を感じていた。感覚がねじれていた。

「病院食に飽きた。鰻を買ってきてくれ」
仕事中に父から電話があった。春先のこの時期に鰻かと思いながらも、いかにも父らしい強引なリクエストだとも思った。
僕は大阪にいるので、どこに鰻屋があるのか分からない。一緒に働いている金田さんに近くに鰻屋がないか尋ねてみる。
「淀屋橋の梅田寄りのところに一件ありますよ。どうしたんすか?」
「いやあ、前に話した強制入院させた親父がいきなり電話してきて、今日鰻を買ってこい言うねん」
5時半に仕事を上がって、そのまま京阪電車に飛び乗って病院に着いても7時。
明らかに病院の食事の時間に間に合わない時間だ。その上、遠くない鰻屋とはいえ、買い出しの時間のロスが大きすぎる。
渋い顔をしているのを見てか金田さんは話を繋げてくれる。
「マジすか、大変すね。お父さん落ち着いてきはったんちゃうんですか?」
「先月の母さんの命日あたりでずいぶんと落ち着いたような気がしてんけど、なんか最近は退院を意識してか、また気が大きくなってきてるんだわ」
金田さんは昨年の秋に知り合ったばかりの人だが、なぜだかこの手の込み入った話をする事を躊躇させない人だ。
それどころか、むしろ喜んで聞いてくれるところがあり、色々と話してしまうことすらある。ほとんど毎日顔を合わす人で、ここまであけすけに家の事情を話せるのはとても助かる。
仕方がないのでモモコに電話をして、父のリクエストを伝える。すでに父は妹にも電話をしていたようで、話はすぐに通じた。河原町にある舞阪の場所を教える。
学校が終わったら急いで買って病院に向かうと言ってくれた。僕のおおよその到着時間を伝えて、また病院で会おうと言って電話を切った。

春先と言えど日が沈むのはまだ早い。
夜の病院の静けさは、恐ろしげだ。それは、父が入院している病院が精神科に特化した病院でもあると思う。息を潜めて、どこにも行くことができない人たちの雰囲気が立ちこめていて胸が締め付けられる。
父が生活している病棟は病院の一番奥にある。緩やかな丘の中腹の斜面に病棟が並び、その一番高い場所を目指すので、病院の正面玄関に着いてもしばらく歩かなくてはならない。
閉じた外来受付を横目に、人気のない待合い場や廊下を抜け、棺桶のようなエレベーターに乗り込む。エレベーターを降りたら、病棟を結ぶ渡り廊下を進み、左手に折れ階段を上る。階段を上がると暗い病棟の回廊を直進し、右手に購買と床屋があるT字路で右に曲がる。購買と床屋は4時に閉まるので一度も開いているのを見たことがない。
父の病棟の入り口の横に並ぶベンチに父とモモコが座って、忙しそうに身振りを入れて話をしているのが見えてくる。
似た体格の似た親子。なんだか熊のじゃれあいのようにも見える。

「わざわざ出迎えごくろうさん。もう鰻食べたん?」僕は大仰な台詞めいた事を言って挨拶をする。
「さっき食べ終わって、一服中」煙を吐き出しながら、中、と言ったのまま口をラッパ状に膨らませている。どうやら上機嫌のようだ。
「モモコ、鰻ありがとう。助かったわ。」
「たけさんこそお疲れさん。」と明るい声をだした。
「お父さんはな、今、モモコに退院したらする大旅行の計画を話してたんだ」と両手を広げながらその計画の大きさを指し示す。
「大旅行?」ジャケットのポケットからピースライトを取り出して火をつけて、オウム返しに聞き返す。
「皆で車に乗ってな、九州に行くんだ。昔みたいにフェリーに乗ったりしてな、色々な所に行くんだ」とちょっと興奮気味で声が大きくなる。
「今晩鰻食べてたらな、柳川の事を思い出したんだ。おばあちゃんの柳川、行ったことないだろ?」と懐かしそうな顔をする。
「まだそんなの考えんでええやん。まずは、調子を整ええや」
「何を言っているんだ。こっちは毎日毎日退屈で過ごしているんだ。仕事のことも考えないようにして、もう仕事は白井に任せるつもりにしたんだ」と早口ですごむ。
上機嫌から一変、憮然とした表情となり、しまったと思う。けれど一度口に出してしまったものは元に戻ることはない。
「ごめんごめん。別に旅行が駄目だと言いたいんじゃないねん」とあわてて言い訳をし、
「モモコはもうその話全部聞いたん?」と話の流れを戻そうとする。
「フェリーで九州に行って、色々なとこまわって、その後四国に渡るらしいよ」と妹も気まずさを覚えながら応えてくれる。
「けど、その後すぐに家に帰る訳じゃないのがお父さんの計画の大きなところなんだ」と気分を変えてくれたことにほっとする。

病院を離れている時、僕は常に頭の中で、父がどうしているかを考えていた。家での父の不在は、父の存在を僕の中で大きく膨らませる。
歳時記を買ってこいだとか、撫村の句集を買ってこいだとか、リクエストを重ねていたけど、それは父なりに自分自身を落ち着かせようとしたのだろう。
入院当初、毎日のように繰り返し聞かされていた仕事の心配事は、この頃は減っていた。その代わり、俳句の勉強をしたり、父の一人勝手な病院改革の計画を立てたりしていた。
「何日か前な、院長が回診に来たんだ。それでな、お父さんはこの病院の運営上の問題点を社会学的に説明したんだ」
父が病室でここ最近あったニュースを披露し、妹と二人してふんふんと相づちをうつ。
仕事後に面会に来て、面会の最終時間までいても一時間半か、長くても二時間程度しか話を聞くことができない。時折喋り逃すトピックがあったので、父はその日に話すリストを日中に作って待っていることがあった。
「強制入院させることができる病院がな、京都にはここしかないんだ。毎日毎日たくさんの人がここに連れてこられてて、人が増えすぎてな、お父さんももう古株になってきた。大阪には5つもあるのに、京都は1つしかないんだ。けど東京はあんなに人がいるのに7つしかないらしい」
「それでな、その問題点をこの紙の裏に書いておいた。退院したらな梅山先生と一緒に知事に直談判に行くんだ。梅山先生だったらな、有名人だからきっと府が動くことになると思う」
と満足気な表情で件の病院の問題点が箇条書きにされた紙を僕に渡す。びっちりと小さな字で埋め尽くされた、余白のない紙面を見て、父の精神の張りをを垣間見る。
病室はエアコンの暖房が入っているが、随分と冷えている。父がベッドの上で毛布にくるまってあぐらをかき、ベッドに向かったパイプ椅子に座る二人に講義をするように手を振っていた。
鉄格子のかかった窓から月が見え、あちら側から室内を見ると、何とも喜劇じみた風景に見えるだろうかと、父の話を片耳で聞きながら想像した。

「明日はスグルに一人で面会に来いと伝えてくれ」と帰り際に父に言われた。父なりに弟が訪ねる頻度が少ないことを気にしているようだ。
「あんまり大学院のこと、あれこれ言い過ぎたらあかんで。スグルはスグルで考えてるんやから」
父はそれには応えず、「とりあえずな、明日はおまえらはゆっくりしたらいい」とだけ言った。
帰り際に看護師の飯田さんとすれ違ったので、モモコと一緒に挨拶をする。飯田さんは数いる病院職員の中で、唯一父が気に入っている人だ。
「ここの医者や看護師は皆ロボットみたいだ。人間味がない。飯田さんはその点、気さくでお父さんは好きだ。」と時々こぼしている。
父がセンセイと呼ばれて、他の患者と仲良くやっていることを教えてくれたのも飯田さんで、確かに事務的な伝達以外の言葉をかけてくれるのはこの人だけだった。

朝、スグルが不安そうな顔で食卓の前に座っていた。「おはよう」と声をかけたけれど、声の調子は優れない。
「今日の夕方のこと考えてるん?」と尋ねたが、「ああ」とぬけの良くないくぐもった返事をする。

スグルの不安は良く分かる。
正月に父と過ごした時間を思い出しているのだろう。
父はスグルの大学院進学について強く反対をしていた。いや、正確に言うと、激しくスグルの生き方を否定したのだ。
その時の父の言い分は、まったくフェアな物言いではなかった。ただただ、本人のこれまでの生き方に比べて、弟の生き方は生ぬるいと言い捨て、スグルが希望する進学を否定した。そして、父が持つコネクションの学校の大学院や父が通った大学の大学院への受験を促した。
語気の強い言葉や乱暴な言い回し、弟の言い分には目もくれず、その言を反発とみなして怒気をちらす。酒を飲ませ、説得ともいえぬ説教を重ねて、声を荒げ、弟が酔いつぶれると、酒をかけ、水をかける。そして、手を挙げ、蹴りを入れた。
五条通りに面したマンションの7階の一室に怒号が飛んだ。僕が大阪で恋人と年始のデートをして帰宅すると、そのような状態になっていた。
父と弟のやりとりを止めに入っていた妹は、涙で目の周りが真っ赤になっており、一体何がどうなったのかと僕は困惑した。

思い返してみると、その年末以前からすでに父の様子は混乱し始めていた。ほとんど眠らず、四六時中酒を飲み、子どもたちを前にすると大演説を繰り返した。
職場での不満や同僚たちへの憤懣をぶちまけ、父の個人的な過去の失敗を嘆き、咽び泣く。そして、子どもたちに干渉し、あれやこれやと強要し、支配的になろうとした。
喜怒哀楽の感情がころころと移り変わり、だれもその感情の変化についていくことができなかった。歯止めがなくなった言葉の凶暴さに心は砕かれた。そして、夢なのか現実なのか良く分からない狂気的な空気が家族を包んでいた。
年末のある日、父が東京に出張に出て家を空けた時は、信じられないほどの開放感を覚え、兄妹3人で京都の町中に飲みに出た。3人で飲んでいると父からの電話が鳴った。距離があいていてもついて回る父の姿に恐れを感じた。
「今日アメリカがとんでもないことをした。フセインを処刑したんだ」と脈絡のない憤りを爆発させていた。
「お父さんはな、社会学者だから分かるんだ。これから世界はとんでもない事になっていくと」と言い放った。
そして、電話口で昔アメリカに住んでいた時代のアメリカはどれだけ良い国だったか、あの時期はどれだけ幸せだったかを述懐し、亡くなった母と過ごしたその地での思い出話をし、感情を乱した。父から感染した正体不明な感情の乱れが3人に染み込んだ。

もはや、だれがおかしくなっているのかも分からなくなっていた。父と僕、弟と妹、それらの間の境界線がほとんど曖昧となり、誰が苦しみ、誰が悲しみ、誰が傷ついているのかも分からなくなっていた。
時間のサイクルは壊れた時計が刻む時間のようになり、突如猛烈なスピードで針が動く事もあれば、緩慢きわまりない終わりのない時の流れに身を置いているような気にもなった。
そして、正月の家には死の恐怖が漂っているようだった。けれども、誰が誰の死を恐れ、誰が死に近づいているのかが分からず、当惑していた。

父が、「スグルが見あたらない、死んでいるかもしれない」と僕と向かい合って言い出した。
「もう酔いつぶれてしまっているから、部屋で休ませたんや。スグルは大丈夫だから、もう休もう」と僕は返事しながらも、思いがけない父のスグルへの心配に唖然とした。
「いや死んでるかもしれない、見に行こう」と言うやいなや父がヨタヨタと弟の部屋に向かう。
「大丈夫や、さっき俺が連れてった時は生きとった」と言って僕は父の前にはだかる。
「スグルが、スグルが、死んでるかもしれないんだ!」
突然の大声を聞き、本当に父の状態がただ事じゃなくなってきたことを今さらに知る。
「モモコ、スグル見てきて。それで親父にちゃんとスグルが生きてること教えたって」必要以上に僕の声も大きく響きわたった。

僕は父に忍び寄る死の雰囲気を色濃く感じ取り始めていた。けれども、父は弟に死が近づいていると思いこんでいる。死の恐怖が家族中に広がり始めていた。
母の自殺から10数年間続く、自殺の心配が爆発している。皆が皆のことを心配しており、誰かが死ぬのではないかと恐怖し、おののいている。
それが常に僕ら家族の根底にあることだったのだ。