「不味い」を考える
不味い食べ物が好きだと言うと語弊があるが、不味いと感じることにとても興味がある。一体、何をもって人は、美味いとか不味いとか言うのだろうと、そこはかとない疑問があるのだ。
それは本当に不味いのか、どうしてそれを不味いと感じるのか、食材が悪いのかそれとも調理法が悪いのか、はたまた食文化の違いが起因となっているんじゃないか、添加物が多すぎて味が濁っているのじゃないか、云々、しばしば考え込み、取り留めもなく不味さに思いを馳せる。
美味いことに関して、人は盛んに口を開ける。どこそこのアレが美味かった。ここそこの板前の右に出る者はいない。あれそれは絶品の食材で最高だ。と、美味いことに関しては、こちらが求めずとも、人は勝手に話を始める。
味以外に関してもうんちくが満載だ。料理人、食材、品ぞろえ、挙げ句の果てには店構えやら接客サービスにまで言及される。他にも、ネット上の書き込みだとか、ミシュランガイドまで話は広がり、僕は美味い物談義の過剰さに些か辟易する。
もちろん美味い食べ物は大好きだ。美味い物を食べて体に力が漲り、気持ちが晴れやかになり、そんな食事に幾度となく感動したことがある。料理を作ってくれる人には敬意を抱いているし、食材を作る人や捕ってくる人には頭が上がらない。
けれども、やはりどうしてだか、不味い物は気になってしかたがない。そう、不味いを知るとは、ある意味においての味覚の冒険であるような気がする。そして、それは同時に人類学的な調査であり、自分と他者との味覚の違いを知る哲学的命題でもあるように思えるのだ。
外国に行くまでもなく、日本国内でも、様々な物の味わいの違いで人はしばしば婉曲的にその不味さの悪態をつく。何々地方は味付けが濃くて食べていられない。何々地方の出汁が黒くて食欲がわかない。何々地方の魚の扱いは田舎者のそれである、などと。それが外国までに及ぶと、しょっぱすぎる、辛すぎる、においが強すぎる、油っこすぎる、肉食べ過ぎる、などと、数限りなく、その不味さを直線的な言葉で言い表わされる。
僕が言いたい、不味さを知るとは、ただその不味さを口汚く罵ることではない。不味く感じることには、不味く感じるなりの理由があり、その訳を探るという思索の旅なのである。それは直感的、抽象的に感じる美味さより、より考察的で具体的な言葉を語る要素が、不味さにはあるような気がする。
そのような不味い、という感覚が言葉となり人からこぼれ落ちるとき、僕は無上の喜びを感じるのだ。