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アイデンティティー in 関西

方言を喋られない。関西で育ったのだから、関西弁を喋られるのじゃないかとなるのだが、ところがどっこいそうは問屋が卸さない。こちとら九州と関東の両親から生まれたハイブリッドなんちゃって関西人であり、自分の言葉のアイデンティティに戸惑いがあるのだ。
関西弁を喋る親戚は一人もいないし、家の中では父の九州訛標準語と母の横浜弁で会話がなされ、幼少時の言語学習期にネイティブ関西弁話者と日常的に触れる機会が奪われた。母は子どもをしかりつけるのに「ダメよ!」と言っていた。どうしても「アカンで!」とは言えなかったらしい。そうなるとしめたものである。何だかんだ言っても、なんちゃって関西人である僕は、その弱々しい異国語の叱責ではびくともしなかった。
いやいや、近隣の人たちと話す機会があっただろ、というご指摘もあるだろう。が、大都市近郊の新興住宅地においては誰もが移民である。近所の一番古い友人の両親は愛媛と岡山の出身だったし、他にも福島と愛媛という組み合わせの友人もいた。両親ともども関西出身という友人は頼もしい関西弁を喋っており、どことなく腰の入ったエゲツナイ物言いをしていた。そう、なんちゃって関西人の頼りない関西弁とは格が違っていたのだ。

されど言葉のアイデンティティがない分だけあってか、言葉の切り替えだけはピカイチである。関東地方に行くと頭のスイッチが切り替わるように、喋り言葉が標準語に変わる妙な技術を幼い頃から持っていた。母の言葉の影響もあるだろうが、もしかしたら関西弁に自信がないから、どうしても関西弁が出せなかっただけかもしれない。
いつだったか旅行をしているときに閃いた。深夜、東京の寂れたビジネスホテルのフロントにて。「あんの~、すんまへーん。予約はしてへんねんけどなぁ~、部屋あるやろか~。(フロント奥の鍵かけを見ながら)えらい鍵が残ってまんな~。こんな時間やし、部屋遊ばせても何やし、どやろ、ちょっとまかりまへんやろかぁ~?」と。
この図々しく、ドギツい物言いをすると、どう言うわけだか、何度も旅先でまけてもらえた。なんちゃって関西人の関西人のふりである。もはや方言もくそもない。関西弁はふりなのだ。アイデンティティの崩壊としか言いようがない。