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天然パーマ

身体の特徴は自己を規定する。などと難しくは言わないが、天然パーマーはかなり難儀なものだ。周囲の人間曰く、鳥の巣のようである。曰く、わかめが頭に張り付いている。曰く、膨らんだ植物のごとく、と。
今更、そんなことを気にするようなこともなくなった。いや、場合によっては、「え、それ天然なんですか?」などと言われ、人の期待を裏切ったある種の痛快さを覚える。それはあたかも、養殖と天然ではものが違いますから!、などと、ねじり鉢巻きよろしく、嘯く魚屋のごとく、満足しきった表情をたたえるのである。
されど、十代のころは散々たる辛酸を舐めた。もしかしたら、それは自意識が過剰な二十代前半までは続いたかもしれない。梅雨の時期を呪った。髪の毛のうねりが湿度の上昇とからかわれた。サラサラな髪の毛がことさら憎かった。
追い打ちをかけるように時代は、センター分けの髪型がはやり、ヴィジュアル系バンドの台頭があり、ジャニーズが席巻し始めた時代だった。いやいや、木村拓哉はパーマだったとおっしゃる方はいるだろうが、誰がどの面さげて天然パーマを指さし、「これ、キムタクめざしてんねん」などと言うことができようか。
養殖サラサラヘアーを何度か床屋で施した。満足な気分も味わうことができたが、それは一過性のものである。結局、生え際から海草のごとくうねり、その勢いは押しとどめることはできず、自意識過剰な時代を過ぎたところで無駄なあがきをやめた。
この天然パーマは父から受け継いだものだ。過去の父の写真を見ると、十代よりも二十代、二十代よりも三十代と髪の毛のうねりを強めている。けれども、三十代から四十代とかけてその勢いに陰りを見せている。
三十代後半、今僕の髪の毛の勢いはまさに旬の時である。確かに辛く厳しい時代も過ごしたけれど、一体何に恥入る必要があるというのか。最近はボブ・ディランみたいな髪型で良いですねなどと言ってくる人すらいる。そう、同じ価値感は続かないのである。時代は変わるのである。ライク・ア・ローリングストーンなのである。