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日々の残像

柔らかな日差し、空には細く白いラインが描かれた青い空が広がっている。風がどこか優し気に肌を撫でるよう流れている。秋晴れ。紅葉のシーズンも相まってか、人々は外に出かけている。少し外に出かけてみようかと思った。そんな出来心で外出する時は、決まって地元のちょっとした名所である背割堤まで足を向ける。名所と言っても、春の花見のシーズンにしか人出がある訳ではなく、大体いおいて閑散とした場所だ。
京都府と大阪府の府境。桂川、宇治川、木津川が流れ込み淀川が始まり、川を挟んで西側に天王山、東側に男山を近くに臨む地点。地形のすぼんだ三川合流と呼ばれるその場所は、ちょっとした僕のお気に入りの場所だ。のんべんだらりとした盆地風景の京都府南部と、淀川沿いに人工物がひしめいている大阪府北部のその間に、景観の変わり目の関所のような風景が広がる。
三つの河川が合流し、山々が迫る。そんな自然が織りなす景色をどことなく好んでいた。西側の大山崎の山すそにはサントリーのクラシックなウイスキー工場が見え、東側の男山の頂上付近に石清水八幡宮の一部が見える。川には京阪電車のレトロな赤い鉄橋がかかり、時々上り下りの列車が音を立てて橋を渡っていく姿は、風景のちょっとしたアクセントとなって愛らしさを覚える。そして、あまり評判の良くない京滋バイパスの巨大な高架橋(昔はなかった)が、まるでゲートのように立ちはだり、人工物の侵入に些か複雑な想いを得たりもする。
それらの橋をくぐり、流れてくる川たちの間にある一つの堤が背割堤だ。川を背中に見立て、背中を割るように長い堤が続いている、それがその名前の所以だ。堤には桜の木が植えられており、花見の時期には桜のトンネルをくぐることができる。その両側には広い川べりが続き、サイクリングロードやバーベキューを楽しめる場所が整備されており、人出で賑わうこともある。
その日は、何らかの催しが行われていた。自転車メーカーの見本市みたいなものが開かれていたり、近くに新しくできる公共施設のキャンペーンブースがあったり、地元特産品を食べさせる市が開かれていたりした。思っていた以上の人で賑わっており、いつもの閑散さを期待した身としては、些か肩透かしな気分だった。
気持ちが沈み込む時、出来るだけ外に出かけることにしている。家で布団でもかぶっていれば良いものだけれど、家に閉じこもるばかりになると、良くないことばかりを考えてしまうからだ。頭の中は、暗く淀んだ考えに占められ、生きる力を消耗する。食事をとるのがただただ面倒になり、適当な出来合いやインスタント食品を事務的に口にする。
僕自身の個人的な性格なのか、それとも生き方なのか、過去で頭が支配されると、自分自身の存在自体が疎ましくなってくることがままある。そのような、答えがすぐに出る訳もない堂々巡りの自問自答が続くと、大体において、その回答を過去に求めたり、僕自身が通過してきた出来事を思い出そうとする。
家族の事であったり、彼らの自殺であったり、死んでしまった人たちとの繋がりのことで、心がグツグツと煮えたぎるように沸き、出口のない禅問答に陥る。その一方で、いつまでもそのようなことを考えたり思い出したりする、自分自身の執拗さに嫌気がさし、どこからともなく怒りや憤りが湧き出て、自分自身を罰することに力が向かい、今を生きる活力が失われていく。
「目玉は外に向かっているように見えても、その視線は内面にしか向かっていないんだ。」と、晩年、鬱で苦しんだ父親はそう訴えていた。その時期の父の目は確かに虚ろだった。何かを見ているようで、まったく何も見ていない目。外の情報をシャットダウンして、自分自身の核を探る目が、申し訳程度に眼窩についているような感じだった。
葉を落とした桜並木のトンネルをくぐりながらも、目に映るものは後ろへ後ろへと流されていき、背景となっていく。右に左に出る足取りが無機質なものとなり、広がる風景はデジタルデータの0と1の配列のような世界となるような錯覚を覚える。感覚が鈍化していき、きっと父と同じような目をしているんだろうと、ぼんやりと思ったりしてしまう。
往年の父が過去を顧みたり、自分自身の存在に疑問を持ったように、僕自身も今という時間に実感がわず、生きる力が希薄になる。周囲に見えている川の流れや、川べりの茂りや、行き来する人々に、何らかのことを思うはずなのに、どうしてこんなに無感覚で無感動になっているのだと、鈍い痛みを伴った頭の片隅で思う。けれども、今は自分のことを考えることで精一杯だろ、それが自分自身が望んでいることなのだろ、と相反した言葉で自らを慰めようともする。
時間の経過を考えるたびにしびれたような感覚を得る。それと同時にこれからやってくる時間への恐怖心も掻き立てられる。過去への耽美的で流動的な感情の起伏と、現在への薄い実感と、未来への不吉な予告を聞く、慄きの様なものを覚えているのかもしれない。
時間を捉えるベクトルは、未だ過去に向かう力が強い。そのような時、英文法の“過去形”と“現在完了形”について考える。過去の一点で起こった出来事を、終わった過去と捉える“過去形”と、過去に起こった出来事を現在に繋がる、連続性のある過去と捉える“現在完了形”、その日本語にない時間の捉え方が、気持ちを纏める助けをしてくれる。
僕は未だに様々な出来事を現在完了形で捉えているのかもしれない。その過去から続く痛みを抱えており、それを過去形にする事が出来ていないのかもしれない。
過去のある点から、数多くの帯が現在まで伸び、揺らめいている。どうして、その帯をきれいに畳んで過去の一点に置いておく事は出来ないのか。畳み方が悪いのか、その帯が長すぎるのか、厚すぎるのか、それともその畳む意思すらないのかと考えてしまうが、答えが出ないまま、毎日のエネルギーはすべて過去へと浪費される。
また、未来は頼んでもいないのにやって来る、腹立たしいセールスマンのように、慇懃な笑みをたたえ、「そんな事をしていないで、こうしたらどうですか?こうしたらお得ですよ?そうじゃありませんか?きっと楽しいですよ!」、などと求めもしない未来へのアピールをする。けれども、「確かに、そうすべきだ。ええ、あなたが仰る事は大体において正しいですよ。けど今は手が離せないんです。間に合ってます。またにしてください。」と思い、そう口にしてしまう。
過去から伸び、はためいているそれらの帯に刻まれた、かつての生活の日々の残像を思い返す事は容易くできるが、現在の力がそちらに注がれている限り、未来が求めてくる積み立てを作るのに力を回せない。過ぎ去った時間に囚われるのは浅はかであったり、愚かなことかもしれない。けれども、時に抽象的に、時に具体的な出来事が刻まれた、それらの帯をどのように畳んでいけば良いだろうかと考えている。

木漏れ日の中、様々な人々とすれ違う。ウォーキングを楽しんでいる人、自転車をこぐ人、川べりで遊ぶ家族たち。そんな何気ない日常の一コマの中にも過去を見出そうとする。
初老のカップルが手をつないで歩いている。楽し気に談笑をし、あたりを見回したり、木々を指さしたりしている。その姿の中に僕は両親の姿を見る。20数年前に死んだ母と、10年前に死んだ父は、老年を迎えることはなかったのだけれども、他人の中に両親を投影することがある。それは、特別なきっかけがある訳ではなく、突如その両親の姿が想起される。
それは、彼らを懐かしんだり、恋しむ感情の表れかもしれないが、それと同時に彼らに覚えている怒りであったり、腹立たしさであるような気がする。その相反した感情を常に持ち続け、いつまでも解消されないような、ジレンマにも似た想いや問いが常に付きまとい、いつまでも彼らの不在をなぞる行為をする。それは、かつての彼らの存在や、彼らが抱いていた価値観を肯定的に受け入れたいと思っている、僕自身の気持ちの表れなのかもしれないし、彼らの影響を否定的に捉えようとする自分自身の拒絶の表れでもあるのかもしれない。
父、母、二人は、ともにユニークな人たちだった。いつも知的好奇心に溢れ、二人それぞれが持っている話題が話題を呼び、いつまでも飽きることなく、話を続けるような二人だった。夜な夜な夜通しで話をしている姿が我が家では当たり前のものだったので、ある時友人の家に泊まった折、友人の両親が子供たちの就寝時間と同じ時間に床に入っているのを見て驚いたものだった。
ある時は父の仕事の研究について話したり、ある時は母が興味を持った出来事について喋り、はたまたお互いの関心を持っている作家について語った。それぞれがそれぞれの興味を引き出し合い、つきる事のなく知的で創造的な遊びを続けられる二人なのだと、子ども心ながらに思っていた。そんな二人の遊びは子どもにも及び、至る所で彼らの知識の引用が披露された。旅行に出ても、テレビを見ても、漫画を読んでも、何らかの形で彼らが持っている知識を教えられ、楽しそうにそれらを語る姿を、大人の姿と思っているところがあった。
二人は、父が東京の大学院に進学した時に出会っている。東京の大学院で教育社会学を専攻し研究者の道を目指していた父と、大学で国文学を専攻し、卒業後に父が通っていた大学院でアルバイトしていた母は出会った。父の就職先が決まり、父が学部生時代を過ごした京都に母と一緒に移り住んだ。父は京都学派と言われる京都大学を中心とする研究グループの若手として働き、母は主婦をしながら、出版社から下りてくる添削作業のアルバイトを得たりしながら、その新しい土地での生活を楽しんだそうだ。
父は福岡の出身で、母は神奈川の出身だった。そんな何もしがらみのない土地での新婚生活は、二人にとっての青春時代そのものだった。二人そろって父の研究者グループに顔を出したり、父が学部生時代に属していたサークルの後輩や昔なじみと連夜に渡って宴会を繰り広げたり、京都の吉田界隈をわが物の様に生活していた話は彼らにとって輝かしい時代だったようで、度々話を聞いた。
二人が青春時代に知り合った人たちとの行き来は、僕が生まれた後も続くことになった。色々な場面に連れていかれ、その集まりの円の中で父、母二人そろって酒を飲み、会話に花を咲かせ、そのようなことを共有できる仲間と楽しそうにしている姿が好きだった。些細な話にも、それぞれの人のユーモアや知識が色づき、まったく新しい話を耳にする、そんな人たちと一緒に過ごしたことは、僕にとっても楽しい思い出だ。そして、そのような大人たちの集まりが、僕の宴会の原風景となりいまも息づいている。

川べりでバーベキューを楽しんでいる人たちがいる。肉や野菜がバーベキューコンロに並び、それを今か今かと待っている子どもや、それをいなす母親や、父親がせっせとコンロの上の食材をひっくり返しているのが見える。そんな何気ない秋の休日ののどかな昼下がりの風景が、そこかしこに点在している。蛍光色の派手な色彩のアウトドアブランドの服を着た若い家庭や、ピクニックチェアーに腰を落ち着かせ、くつろいでいる中高年の家族など、様々な人々の姿が目に付く。
僕もこの場所で家族と彼らと同じように来て、外での食事を楽しんだことがあった。家から食材や酒やキャンプ道具をぎっしりと車に積んで、家族皆で、猫まで連れて、やって来た。仲の良い友人家族何組が集まり、花見だったか、紅葉狩りだったか、そんなものを理由にして、野外での宴会を開いたのだった。
その折、連れてきた飼い猫が川べりの茂みに潜んでしまい、もう帰ってこないと弟と妹と一緒に不機嫌になったり、泣いたりしたことを覚えているので、それはおそらく小学校の高学年の頃だ。その頃は、父、母ともどもに精神的な不調を抱え始めている頃で、このような鮮やかな家族の行事的な記憶が残っていることは僕の中では珍しい。
父はそれまで毎日を忙しく仕事に励んでおり、充実した時間を過ごしてきた。京都の研究者が中心になって計画が練られた国立研究所の立ち上げに関わり、僕が小学校一年生だった1987年に、その大きな仕事を成し遂げた。その後は出来上がった研究所の職員となり、多くの研究者の間を行き来し、仕事の場も日本国内にとどまらず海外にも広げ、前途洋々とした堂に入った父を誇らしく思うところもあった。
子どもに対する教育も幾分考えていたようで、気まぐれに本を読ませたり、学校の勉強を見たりすることがあった。九州男児で気が短いためか、良く手を挙げられ、恐ろしくも思っていところもあったが、心のどこかで父のようになれればと、背伸びして父が口にする作家の本を読んだり、文章を書くまねごとをしたり、父のその後姿を気にし始めていた。
僕が小学校高学年の頃の父は、調子が不安定だった。朝夕と苦悩の叫び声が家の中で上げることもあれば、突如激しく動き出し予想のできない動きをすることもあった。家に一日中こもり、家からまったく出ずに部屋にこもっている時期もあれば、外に出たままなかなか帰ってこず、帰ってきても人に電話をかけ続けたり、突如新しく家を改築するプランを立てたり、行き場のないエネルギーの消費をあけくれているような時期もあった。
暗くくすんだ目をしているかと思えば、全能感にあふれ危うい目をむいている時もあり、時をおいて起こる父の変貌が恐ろしかった。僕にとって、父は正体不明な恐ろしい人であり、不安を駆り立てる人だった。けれども、同時に静かにたたずみながらも力強い好奇心や行動力を秘め、激しく激高しながらもその心に孤独や寂しさを振りまく、そんなアンビバレントな二面性や、危うくも力強い背反したありようを魅せる人でもあったような気がする。
母も様々な面で精力的な活動をしていた。ヨガをしたり、漢方薬の研究をしたり、母の関心事は、現在と比べて、その当時はまだあまり市民権を得ていないものが多く、僕には不思議なものに見え、どことなくエキセントリックな人物なのだろうと母を捉え始めていた。学校から帰るとよく見かけるのは、ヨガの鼻から抜ける呼吸の音を高く響かせながら座禅を組んでいる母の姿と、その横では黒々とした漢方薬がグラグラと煮出され、その液体から慣れない臭気が放たれているものだった。友達を連れて帰った日などは、玄関先から呼吸音と臭気が漂い、目も当てられない気持ちになった。
そのような健康に気を遣うことは、食事の面においても徹底されていた。有機無農薬栽培で育てられた食材や調味料を買い集める共同購入の活動をし、玄米食や自然食や手作りのおやつが僕の口にするべきものとなっていた。シンプルで質素な食事が毎回食卓にあがり、友人たちの食卓にあがるカラフルで楽しそうな料理が羨ましかった。今考えれば、圧力釜で炊き上げられた玄米など手間がかかっていて贅沢なものなのだけれども、子どもの時分には心暗くする食事だった。
いつだったか、小学校の家庭科の授業で玄米の話が出たとがあった。クラスメートが玄米の存在をほとんど知らないことを知り、母に告げると、翌週にはクラスメート人数分の玄米のおにぎりを持たされた。給食時間に皆で食べたのだが、その見慣れぬ茶色いおにぎりはクラスメートに不評で、母の価値観が受け入れられなかった残念さや、僕自身も必ずしも喜んでいないという気づきや、何とも言葉にできない想いを持った。帰宅後おにぎりが入っていたお重を返しながら、皆美味しいと言って食べたと告げた時の、妙な無念さを今も覚えている。
そういった自然食を求めていたのは、母が関わっていた環境運動の一環でもあったように思える。特に1986年に起こったチェルノブイリ原子力発電所事故以降その傾向が強まった。日本でいつ放射能漏えい事故が起こっても問題がないように、我が家では食料が備蓄されていた。納戸やガレージにはたくさんの油や調味料や保存食が並べられ、冷蔵庫は業務用の二枚扉が観音開きになるものが置かれ、大きな冷凍庫は常に食料が満載になっていた。
恐らく母の中では原発事故が起こることが前提でその時期は生活していたのだと思う。放射性ヨウ素の半減期が過ぎる八日分の茹でた野菜が冷凍保存され、古くなった順に食卓に出され、使われた分は新たに作り直している母の姿は、どこか鬼気迫るものを感じていた。また、原子力発電所で事故が起こることを想定した連絡網をまわす訓練が行わたりもしていた。まだインターネットもメールもない時代だったので、「敦賀原発で爆発事故が起こりました。風は北西から吹いています。」と固定電話を前に母が口にしていた言葉を今も覚えている。その他にも、ガイガーカウンターの展示会に連れていかれたり、太陽光発電の啓発の絵本を読まされたり、母からそういった価値観を強く教えられたような気がする。
父と母はまったく違った価値観を持っており、母がしていたことに父は関心を向けていなかった。むしろ反対的な意見を持っているようだった。
母が行っていた運動の中で反原発活動を行っている作家を招いて講演会をすることになった折には、激しい父からの反対の声が上がり。それとは逆に、父が仕事の関係で電力会社からの仕事を請け負った時は、母から猛烈な批判が上がったという。
食事に関してもそうで、父は好きなものを好きなだけ食べて、早死にをすればよいという、母とは真逆の食事に対する哲学を持っていたし、子供の教育を考える際は、母が公立の学校教育とは別の選択肢を考えると、父は教育とは洗脳である。国家教育(些か古めかしいが)で良いと本人の専攻を引き合いに反旗を翻した。
朝目が覚めて、リビングに降りると、前夜僕が寝る前と同じ姿勢のまま議論にふけっているの両親を見かけたことが何度となくあった。夜通し続いた話し合いの為か、目を真っ赤にはらして、そそくさと朝食を作り始める母や、憮然と新聞を読む父の姿が脳裏に焼き付いている。反原発か原発促進か、それとも脱原発なのか、それらの議論が家庭の中で果てしなく続いていた。結局その議論は、それから間もなく母が自らの命を絶ってしまうことにより、最終的な答えは出ないままになった。
2011年の福島第一原子力発電所の事故以降、その当時の父と母のやり取りをよく思い出す。もし、あのまま二人が生きていれば、二人はどのような意見を述べるのだろうかと。そして、もし現在も二人がいれば、彼らは意見をすり寄らせるこことが出来たのだろうか、それとも相も変わらず議論を続けるのだろうかと。

二人の生きざまを俯瞰的に見ることは、僕の立場から見ることは難しいことではあるけれども、彼らが残した影響は間違いなく今も僕の中に息づいている。そして、それは突然湧くように表れ、僕自身に問いかけてくる。それで満足なのか、それが求めていることなのかと。そんな問いかけを肯定的に思う時は、経験してきた物事が輝かしくも貴重なものだったと思えてくるが、否定的に思える時は暗く淀み過ごしてきた時間は無駄の堆積となる。
「あなたは随分と色々な事を我慢して生きてきた。だからもう我慢しなくていい。生きたいように生きればいい。」と人から言われたことがる。それは、当初僕にとっては的外れで不可解な言葉だった。僕はそれまで何も我慢をしてきたつもりもなく、好きなように生きてきたつもりだった。
そもそも両親の自殺が起こらない人生などありえなく、それ以外の選択がある人生など想像することもできなかった。それは、ただただ受け入れるだけのことであり、我慢も何もするようなことではないと思っていた。
記憶の中では、過去の日々はうっすらとしており、陰影が薄く、気持ちの揺らぎはなく、能面をかぶり、フラットな面持ちであろうと、そう生きてきたような気がする。これは独り勝手な解釈ではあるけど、自分の人生の中で起こったことを直視することができず、自発的な感覚を押し込めていたのかもしれない。どこか自分自身のありようを、どこか他人事のように扱い、自分自身の意思や選択とは別のところで起こった、ある意味の震災のような出来事の被害者を装い、一つの諦めにしようとしているのかもしれない。
両親のことを顧みる時、僕自身の中に宿している、彼らの考えであったり、彼らの行動が浮かび上がってくる。力強く生き、子どもたちに多くの影響を残していった彼らの生きざまが、チリチリと痛みを伴い、思い出される。それと同時に自らの命を自ら奪うという、彼らの死にざまも思う。どうして彼らは、彼らの存在を否定し、この世を去っていたのだろうか。どうしてその否定の余震をここまで残していくのだろうかと。
楽しく、幸せに生きられれば良い。きっとそう両親も願っていたはずだ。そして、子どもたちにもそう願い、教育や食事に気を使っていたのだと思う。けれども、僕の中では楽しさも、幸せも、学びも、健康も、全て意味なく感じている。
考えることが煮詰まると極端なものの言い方をしてしまう。
健やかに生きる事に意味があるのか、自ら死ななければどんな生き方をしても50年くらいは生きるだろう。健康を願いつつ健康以前の死に方をした人間たちから影響を受けたのだ、生きる力を失い、死を意識するのが当然だろう、と。
片や、生きる力を弱めている自分を見て、指をさす声がする。
どうして、そんなに生きる力を弱めるエネルギーに満ち溢れているのかな?そんな妙なエネルギーを大量に使っているからそんなに苦しんでるんじゃないの?何て皮肉なことなんだろうね、生きる力がないとか言いながら、そんなに”生きる力を失くそうとしているエネルギーに満ち溢れている”んだからね。おっと、怒っちゃいけないよ、よく考えてみなよ、人間生きていれば勝手に心臓は動くし、呼吸はし続けるし、腹を空かせ続ける。そんな制御できない欲求を止めようとするんだから、それはとてつもないエネルギーさ。覚えておきな、エネルギーの使い方に悪い癖があるだけなんだ。それだけの事だよ、と。

桜の木から新芽が芽吹いている。その硬く閉じた蕾はこれからやって来る冬の事よりも、その先の春を思わせる。その並木道には幾百と桜の木が並んでいるけれども、一つ一つの桜がが生きずき、これからやってくる季節に着実に備える生命の力が宿っていることを知る。道行く人々も新芽の小梢を触れてみたり、写真に納めたりして、小さく蕾んだ春を思っているのかもしれない。
そのような命の兆しに多くの人は喜び、愛でる。そして、僕もその強ばった小さな命の先端を凝視しする。
これまで通過してきたかつての経験は、僕自身に様々な癖をもたらした。生きずらいこと、死にたくなること、物事に集中ができず散漫に時間をすごすこと、他にも数えられないほどその癖を持っている。けれども、どれもが自分自身が植え、何度も過去を顧み世話をし、育んできたものだ。
両親の人生を辿り、自分自身の人生を悲観的に思ったり、苦しんだりするのも、自分自身でしてきていることだ。自らの人生の設計図に自ら墨をかけて、何も見えない、何も分からない、と苦しんでいるのは、愚かで馬鹿馬鹿しく、ある種の喜劇的な匂いさえする。そう思える時、自分自身が選んできたことを、まるで他人事のように捉え、生きてきたことが変わってくるのだと思う。
人と生き、過ごす時、自分の人生を貶める癖は、ひどく辛い。これからの人生の中でも、幾度とな身に宿した癖で苦しむことがあるかもしれない。けれども、自分自身が思うこと、そして人が思うことに耳を傾け、生きていけれえばよいと思う。

父の死の報を聞き、車でこの背割堤の近くを通った。花見目当ての車で渋滞し、いつまでも進まない前方車両にイライラした。来年の春で父の死から十年になる。過去が過去になり、彼らが彼らになる。そして、僕は僕となり始めようと思う。