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観応の擾乱 足利尊氏と足利直義

観応の擾乱というのは1350年から52年にかけて行われた戦いです。

室町幕府の歴史を時系列で振り返ると、1336年足利高氏が共闘を制圧して光明天皇が即位し、後醍醐天皇は吉野に移って南朝を立てます。1338年、北畠顕家、新田義貞という南朝方の主要な武将が戦死、足利尊氏が征夷大将軍になり、このあと十年ばかり平穏な時代が続きました。ところが、1350年になって足利尊氏と足利直義の兄弟の間の戦いが始まってしまいます。

観応の擾乱で、足利家は足利尊氏・足利義詮・高師直と足利直義・足利直冬に分かれます。足利直冬は足利尊氏の子供なのですが、足利直義が養子にして可愛がったので、足利直冬は尊氏よりも直義に親近感を抱いていました。

足利尊氏と足利直義はもともと仲の良い兄弟で、鎌倉幕府を倒すために二人で協力して挙兵してから、二人三脚で室町幕府を支えてきました。二人の性格はかなり違っていて、足利尊氏高氏は戦いに強いが細かいことはあまり得意ではなくて、細かいことは弟に任せるという親分肌の人物です。足利直義は戦いはあまりうまくないが筋を通して統治していくというのは得意で、二人が職務を分担する形で室町幕府は運営されていたのです。しかし、室町幕府ができて十年余り経過すると、尊氏の近くにいる人々と直義の近くにいる人々の間に微妙な路線の対立が起こり始めます。

足利直義と上杉重能は、幕府は公家と武家の両方の利益を守る役割がある、荘園領主の既得権を守っていかないといけない、秩序の維持を優先するべきだと考えます。一方、室町幕府に従う武士たちの中には所領を拡大するためには荘園領主の既得権を奪ったら良いと考える人たちもいて、高師直が中心になっていました。高師直は南朝の主力である北畠顕家や楠木正行を倒すなどの功績によって地位を向上させていきます。

1349年、高師直のクーデターによって、足利直義は出家し上杉重能は殺されてしまいます。これに対して、足利直冬が足利直義の危機を救うために立ちあがりました。足利直義は南朝側に帰順して反撃し、足利直義・直冬と足利尊氏・義詮・高師直に分かれて戦いが始まります。

足利家の分裂に南朝と北朝がからみ、観応の擾乱は複雑な経緯をたどります。

続きは、動画をご覧ください。


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