大衆のメディア化がもたらすこと

矛盾なんですが。

こんなにも簡単に何かを発信できる世の中は本当は恐ろしい。

普段出版物に関わる身として、その責任の重さを感じられずには要られない。

文明が発達し、世界へ一瞬で情報を拡散できる可能性のある発信機器をほとんどの人が持てる今。

誰もが拡散力のあるメディアとなり得る。

その恩恵とその罪悪は、誰もが知っての通り。容易に情報を発することで、それが孕む危険を須く持つことになることも、きっと暗黙知。

私もこうして不特定多数がアクセスできるメディアに簡単に書き込むことができる。

出版物として紙を刷る、ということは物質に情報が刻まれることであって、簡単にそれを消すことができない。(もちろんデジタルで出回った情報も、一次情報以外は簡単に消せないが)

だからこそ、少しでも間違った情報が一度印字されようものなら会社にとって大事件。

間違った情報により被害を受ける関係者、取材対象者への謝罪はもちろん、それが冊子の刷り直しによって納期ズレする場合は、印刷所に頭を下げ、取次に頭を下げ、書店に頭を下げ、読者に頭を下げる。信頼面でも費用面でも損害は大きい。

だからこそ、出版物に対するチェックは厳しい。何度も読み合わせ、校閲が厳しく確認する。(それでも人間なのでミスしてしまうこともある)

今や誰もが色んなことを発することができる。昔から人は情報を発信し、伝達によって生きていたのだから、それを良し悪しの定規だけで測ることはおかしい、でも、発信することの功罪はきちんと考えなければいけないのだと思う。誰もがすぐにボタン一つで発信できるとき、校閲は不在だ。

もちろん気軽に発信ができる今だからこそ、普段大声を出して話すことのできないような少数派の意見をふいにタイムラインで見つけて、助けられることも大いにある。

対岸の誰かの目に止まるかもと思ってそっと便に文に詰めて海に流すように、藁にもすがる想いで誰かに気持ちを託す時もある。

でもやっぱり、出版の苦労を間近で見てきたからこそ、すべてがメディア化するいま、情報を発信する側も受けとる側もその手間を顧みて気を付けるべきだと感じる。

メディアリテラシーの話は耳が痛いし、昨今の誹謗中傷問題もあるのでわかってるよという人が大半なはず。だけど、誹謗中傷を全くするつもりがなくても、プレーンな文章について書くときも、改めてメディアというものの危うさに立ち戻らないといけない。最近特に、意識せねばと感じることが多くなったので、自戒を込めてここに書き記しました。


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