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誰よりも君を

:声の高い女性になりたい←嘘
:社会的に地位の高い人物になりたい←嘘

5月にモンゴル旅行をした。外国に行くのは17年ぶり2度目で、1回目は3歳の時のハワイ旅行であり、ほとんど全ての記憶がない。ハワイのかき氷屋さんでいちご味を注文し、ピンク色に心躍らせていた時、横で兄がレインボーのかき氷を持っているのを見て泣いた。その選択肢あったならそれにしたわい。俺は3歳の頃から視野が狭く、その癖他の選択肢を誰よりも羨んでいる。今も俺というものの本質は変わることなく。

旅行をするのは好きだけれど、非日常を楽しんでいる感じではない。俺はさまざまな変化に抵抗がない(と思っている)。思い出がある(と一般的にされている)物を捨てることになんの躊躇いも感じない。高校の制服は卒業後1ヶ月以内に捨てた。大学を辞めるときもロッカーの荷物は大学内のゴミ箱に捨ててきた。他人に与えられたものは、捨てたら己の倫理観を疑われると思い捨てることができない。それは、はい
写真のデータがなくても全く困らないし、間違えて削除してしまっても、まあ 
海外旅行はそういう行為に似ていると思った。こんなことで心を変えてたまるか、みたいな感情があるんだとおもう。だからといって観光名所とかで「こんなもんね」とか口に出すわけでもない。既読。
全く知らない街よりいつもバイト先に行く景色を眺めている方がいい。一生に一度しか見れない景色なんて、俺には要らない気がする。そこから生まれる感情もない。

成人式の前撮りをしてきた。モンゴルに行くよりよっぽど気の持ちようが変化した気がする。俺が着た振袖は俺の叔母のために祖母が購入したもの。無地の濃い紫に、足元に少し金色の花などが描かれている。ガキの頃からこの振袖を着た叔母の遺影を見ていた。見たことも会ったこともない叔母の写真を見て育った。(というのは過言、祖母の家に行くとたまに目をやったくらい)
朝の9時ごろに美容院に着き、メイクの仕上げやらをしてもらう。そしてヘアアレンジ、着付けをしてもらった。こんな大変な思い2度としたくない、と思いつつまだ成人式当日が待っている。
インスタに自分の振袖姿をアップしたら、久しく連絡を取ってない高校の同級生から「極妻?」とDMが送られてきた。確かに。極妻としての意識が芽生えた。
撮影所?で何枚も写真を撮った後、母親がデータごと買う と言ったため、特に写真の選別をする時間もなくなり帰宅。2回も長時間にわたる昼寝をしたら深夜の変な時間に目覚める。
母親が着たお下がりの振袖のことを、<ママ振り>と呼ぶインスタアカウントを見つけて、その妙な語感の悪さにまたそっと目を閉じた。

モンゴル旅行が非日常を体験するものだとしたら、前撮りは俺の血を辿る体験だったように思う。約30年前に祖母が購入した振袖を、今回俺が着なかったらどうなっていたんだろうか。どうにもなってないか。でもモンゴルに行くよりよほど俺が俺に触れることがあった。これはモンゴルを下げているのではないです。俺に必要なのは外への眼差しではなく、自分自身を掘り下げる行為だった ということ。

:毎日カルディ行くお金ほしい
:毎日果物食べるお金ほしい
:毎日パン屋さん行くお金ほしい