見出し画像

手入れする生活(4)

おはよう。今日は5時に起きた。早起きは朝の時間を優雅に使える。静けさの中で日課をこなしていくのはとても気持ちがいい。

今日も思いつきのまま書きなぐる。自分の頭の中にあるものをただひたすらに出してあげる。出してあげないと詰まってしまう。朝起きたらトイレに行くように、noteに行く。文章として出してあげる。

昨日書きながら見つけた、「勝手に台本を作っている」という考え方は、うまく機能している。不安な思考で頭が浮かぶたびに、「あ、これは俺が勝手に台本を作って、それを登場人物たちに言わせているだけなんだ。現実では、今この瞬間、誰も何も言っていない。」ということを思い出させる。

現実に戻ってくる一番簡単で効果的な方法は、目の前でやっていることを見ることだ。掃除中なら、掃除をしている自分の手。シャワーを浴びている最中なら、鏡に映った自分の顔。外を歩いているなら、空の模様。何でもいいから、現実に見えているものを、ちゃんと見ようとする。そうすると、意識はこちらに戻ってくる。意識が戻ってきた瞬間、我に返る。

もっと普段から、目の前のことに集中できたら、不安になることは少ないのかもしれない。行動と意識が一致していないことがある。今だって、これをタイプしながら、また別のことを考えていた。タイプしているのにだ。

こんなこと書いてどうするんだろうな。誰が読むのだろう。わざわざネットに書くことなのか。駄文なんて書いて、ネットにゴミを増やすだけじゃないのか。昨日の記事だって読まれたのはいつもより少なかった。ついこの前までもっと読まれていたのに。というか、そもそも、俺の書くnoteは全然PVが少ないぞ。他の人が書いた、月間報告とか見てみると、俺の何倍もPVがある。一見、そんなにフォロワーとかいなくても、始めたばかりでも、PVが俺より多い。俺なんてもう100日連続で書き続けている。それなのに、あまり伸びていかないってことは、必要とされていないんじゃないか、こんな文章。文章術の本のセオリーからは全くかけ離れているし、こんな思いつきでダーッと書くのなんて、ただの自己満足じゃないか。もっと精査しろよ。人の為になるようなものを書けよ。こんなのばっかりでネットが溢れていたら、みんな困るだろうが。社会が混乱するだろうが。もっとシンプルにかっこよくいけよ。こんなの、病的だぞ。人に見られたら恥ずかしいし、バカにされる。知り合いとかから、友達から、あいつ頭おかしいって笑われてバカにされるぞ。暗いって笑われただろ、今までも。嫌だよね暗いやつ。現実が直視できない子供じみて、わがままで、行動力がなくて、心が弱くて、引きこもりがちなやつ。そんな風に見られちゃうぞ。

こんなことを思い続けている。だけど僕はまだ書いている。この思考もまた、僕が頭の中で勝手に作り上げている台本の一つだ。僕が僕に勝手に言わせている。これが全部事実だとしても、本当に周りからそう思われているとしても、俺が書きたければ書いたほうがいい。俺が書きたいのか、書きたくないのか、それが唯一の大事なことで、それ以外はどうだっていいのだ。

これはリハビリ、セラピーの一種だと思っている。自分で自分を嫌っている部分、人に見せたくない部分、隠してきた部分を、さらけ出していくための練習だ。もしかしたら、このnoteも誰か知り合いに見つかるかもしれない。これは本名でやっているのだし、顔写真もアイコンになっているから、完全に俺だと一致できる。だから、俺がこんな文章を書くやつ何だってことはその瞬間にバレる。その練習。バレてもいいように、バレることを覚悟で書く練習。見せてもいい部分だけじゃなくて、隠したい部分も見せていく練習。

何も、自分を全てさらけ出したいわけじゃない。私生活も全て丸裸で、本音で生きるぜ!とは思わない。だけど、見てほしい部分しか見せないというのは不自然なことで、隠したい部分も含めてでないと伝えたいことは伝えられないと何となく知っているからだ。飲み会の誘いを、嫌われたくないからと言って断る勇気がでなくて、嫌なのに飲み会に言って、暗い気持ちで帰ってくる人生にはしたくないだけだ。

以前の僕ならこんなに思いつきをひたすら書くなんてありえなかった。自分の美意識的にも、羞恥心的にもあり得なかった。これは実験なんだ。一人称が俺と僕が混在していても気にしない。俺と書いているときは、自分に意識が向いている時。僕と書いているときは、外に意識が向いている時。
話を戻すと、以前はこんなこと書かなかったけれど、書いてみて思ったことは、とても気持ちがいいということだ。怖いし、不安はあるけれど、なんだかやってはいけないことをやっている感じがして、謎の快感があったりする。自分の中のタブーに触れている感じ。これは価値観を壊すという意味では合っているのだろう。福岡伸一博士の言う、動的平衡でもあると思う。

少し前までは、noteを書く時間も毎回測っていた。1記事20分で書けることを目標にして、試行錯誤していた。フォーマットを作って穴埋めにしてみたり、先に目次を書くようにしてみたり、どうしたら効率的にタイムを短くできるかと毎日競ってた。ぼくはこういう努力を惜しまない。これを試行錯誤だと本気で信じていたし、試行錯誤が好きで得意だと思っていた。

今は完全に間違っていると思える。そもそもこんなことは「僕にとっての」試行錯誤なんかではないのだ。僕には効率的という考え方は肌に合わないことが最近わかった。効率的にやりたいのは、ただの憧れであって、自分には全く向かない。むしろ身体性が損なわれるし、機能的ではない。ベクトルが間違っているのだ。

僕に向いているのは、おそらく行き当たりばったりのやりかた。思いつきでやってしまうやり方。好き勝手にやりたい放題やるやりかた。やり捨てていくやり方。この方向性で試行錯誤するべきなんだと思う。まだ確証はないけれど。これはいわゆる効率的とは無縁だと思う。だけど、ぼくにとっての効率的なやり方だとは思う。

こんな風に、言葉は意味を限定してしまう。効率的と一言に言っても、本当は人によって意味合いや、意味を含む範囲は異なって当然のはず。味覚や聴覚などと同じで、感じ方は個人に依るのだから。だけど、言葉は他者との意思疎通のためにも使われるものなので、便宜的に意味を限定せざるを得ない。その限定の仕方を固定化、絶対視してしまうと、言葉に人間が限定されてしまう。意識や身体をそこにアジャストさせようとしてしまう。合わせにいってしまうのだ。フレームがあるから、そこに自分をパコッと当てはめてしまう。それはもったいないし、長い目でみたら、精神的不健康につながるので、危険だと思う。

僕はこれを長い間ずっとやってきたのだ。効率的という言葉で、僕は僕自身を縛ってきた。効率的な生き方に憧れ、生き方や価値観を調整しようとしてきた。僕には全く向いていないというのに。それに、最近になってようやく気がつくことができた。

気づくことができたのは、noteを毎日書いていたおかげでもある。書くスタイルを変えてからだ。連続更新100日を超えたくらいから、いいことを書かないようにしてみた。意味があることを書こうとしない。価値をもたらそうとしない。ペルソナなんて考えない。仕事につなげようとしない。お金にしようとしない。よく思われようとしない。もう、自分の書きたいように書くことにしてみた。それは同時に効率度外視でやることでもあった。効率度外視で書くようにしてみたら、気持ちよかったのだ。体感として、効率的にやることが自分にはいかに向いていないのかに気付かされた。これは大きかった。むしろ、これに気がつくためにnoteを書いていたのではないかというくらいだ。

もう一つ自分のなかでヒントになったのは、坂口恭平さんだろう。坂口さんのnote、「土になる」や新作『自分の薬をつくる』は、自分の捉え方を見直す大きなきっかけになった。自分の許し方を知ったというか。

つまり、効率的にやろうとしていたのも、意味あることや価値あること、お金を稼ごうとすることは、僕の場合、「自分が許せないから」の一言につきるのかと思う。

「今の自分はとてもじゃないけど許せない。こんなんじゃだめでしょ。だから、もっと効率的にやれ。意味あることをやれ、価値を生め。ほら、憧れの誰それさんは、こんな風にやってるぞ、こんなこと書いてるぞ。お前のやり方なんて、ちんけなもんだ。そんなんじゃ稼げないぞ。そんなもの作ってどうすんだ。誰も喜ばないし、買ってくれないぞ。売れないぞ。必要とされないぞ。だからもっと誰それさんみたいに早くなれよ。最短でな。効率的にやれよ。」

こういうことなんじゃないかと思う。いや、実際こう考えていた。今書いていて分かった。書き起こした文字を読み返しているが、なんか悲しい気持ちになるなコレは。もうこんな風に自分を痛めつけるのはやめたい。でも、気がついてよかった。これも書くことの効能だと思う。ひたすらに思いついたままに書く。効率度外視で、意味あることを書こうとしないで、価値を生もうとしないで、人のために書こうとしないで、怖がらずに、とにかく書く。

そうすると書き続けていく内に、これらがぐるっと回転して、意味あるものがポロッとこぼれおちてきたりする。岩肌のすき間からこぼれ出る湧き水のように、意味が押し出されてくる。少なくとも僕にとって意味はある発見が今日もあった。これでいい。人にとっての意味や価値は分からない。もしかしたら生まれてくるかもしれない。このnoteからは直接生まれないかもしれないが、このアウトプットを受け取った僕自身が、別の形で作品に還元して、それが誰かに意味や価値をもたらすことになるかもしれない。すぐに、直接的に、刈り取ろうとしない。求めない。ここでも効率は考えない。それが僕にとっては健全な生き方なのかもしれない。こうやって少しずつ自分を手入れする。


もし、ここまで読んでくれた方がいらしたら、ありがとうございます。人に見せることを前提にしてはいますが、読んでもらうことを重視していたわけではないので、お付き合いくださって、時間を割いてくださったことにお礼を言いたいです。

サポート頂いたお金は、商品開発の費用として、ありがたく使わせていただきます。