手入れする生活(3)
おはよう。今日は6時半に目が覚めた。昨日は11時位に1回起きてしまって、そこから眠れなくなったので、Youtubeを見始めたら2時になってしまってた。こういうときのやってしまった感はすごい。後悔の念に包まれながら急いで目を瞑る。見始める時、こうなるであろう未来を一瞬予想しているのに、いいやって思って、Goしちゃうのは何なんだろうな。止められたのに自分をコントロールできなかったことに対しての後悔なんだろうなコレは。
でも昨日はいつもとはちょっと違ったな。まず、頑張って早起きしようって決めた。いつもなら何時間寝れるかと睡眠時間を計算して「最低6時間は寝たいから8時起きだな。でもそれだと掃除とかnote書く時間がどんどん遅くなって、娘ちゃんも当然起きてるから、遊んであげたりしてると思うように出来なくて、またイライラしそうだな。怒っちゃいそうだな。せっかくの休みなのにまた最悪の気分にしちゃいそうだな。」とここまで1セットでダーッと考える。それで、もっと早く寝なかった自分を責める。快楽を優先して、自己抑制が効かないダメな自分を心のなかで罵倒する。バカだ、だからお前は何をやってもダメなんだ。
この後悔思考の元になっているのは、遅く起きてしまうことだ。だったら、とにかく早く起きればいい。寝不足だと、1日快適に過ごせないから、睡眠時間をたっぷりとりたいのは分かる。だけど、遅く起きるよりマシだ。遅く起きると朝の時間が短くなってしまう。俺は朝にやるべきことをすませてしまいたいマンなんだから、とにかく朝の時間を有効活用できた感が気分を左右してるんだよ。よし、まず朝は早めに起きる。そのために今できることは、なるべく気分良く寝ること。寝るのが遅くなっちゃったけど、自分を許してあげよう。うまくできなかった自分も大丈夫って許してあげよう。
自分で書き起こしてみると、めちゃくちゃ細かいことを気にしてるっていうか、馬鹿らしいっていうか恥ずかしい気分になるな。「寝るのが遅くなった自分を許してあげる?」は?なんだそりゃ。なんて小さいことでクチュクチュやって生きてんだよ、狭い世界だな。とか思ってしまいそうになる。だけど、これは実際に俺が感じていたことなんだよな。たった6時間前、ベッドの上で頭の中で作り上げていた仮想現実の世界。そうそう、全て妄想なんだよ。
最近気がついたんだけど、自分を責めてるときって、仮想現実の中にいるんだなって思う。頭の中で勝手に作り上げた仮想現実に意識がダイブしして、そこで登場人物たちにアレコレしゃべらせてる。そう、これもポイントで、登場人物たちが、俺にアレコレ言ってくるんだけど、これは全部俺が作り上げた台本のセリフなんだよね。実際に言われてないの。俺がセリフを作って、それに沿って登場人物にしゃべらせてるだけなの。そのセリフに対して俺は落ち込んでいるんだよね。不思議だと思わない?だけど、リアルに落ち込んでるの。起きていないことに落ち込む。やっぱりそうだよね、俺ダメだよな、とか言って。
何ていうか、俺がダメだと思っていることを、最も言いそうな人を登場させて、その人にしゃべらせてる感じ。配役も自分で決めてる。抜擢してる。脚本、監督、俺。そして唯一の観客も俺。俺の、俺による、俺のための仮想現実上映会。
たぶんだけど、家族に怒っているときもコレをやっているんだと思う。高速早回しでバーッっと。何かきっかけになる出来事があると、それをフックに台本を書いて、配役を決めて、上映させて、「ああ、こうなるんだ」と後悔を味わった上で、そうならないように防衛反応として怒る。身を守っている。でも、実際は誰もそんなこと言ってないし、むしろ俺の家族は俺を否定したりなんかしない。愛情を持って接してくれている。そりゃちょっとした意見の違いはあるにせよ、俺の意見を否定したりすることはないし、尊重してくれるし、俺の好きなようにやらせてあげるために応援や実際に協力までしてくれる人たちしかない。なのに、仮想現実の台本にとらわれている俺は、防衛反応を起こして怒ったりしてしまう。その瞬間は、目の前の人を見ていないし、信用できていない。お互いにとって悲しい。
でも、俺が幸せなのは、誰も諦めないってこと。俺も家族も、お互いの関係を諦めない。すれ違っても、傷ついても、何回でも関わり合おうとする。これはすごいことだと思う。しぶとくしぶとく続いている。このやりとりの深遠さこそが、愛情だと思う。これは俺の実感からそう言える。お互いの感情とか、行き違いの無念さや虚無感とか、喜びと悲しみとか、「それでも」まだ関わりあおうとしているお互いの言い切れない言葉や、声にならない声みたいなものなんかが、時間をかけて何重にも何重にも折り重なってできた地層みたいなもんじゃないかと思ってる。その地層が深いほどに、新たに降り注がれるものを、養分に出来たり、浄化できたりしやすくなる。悲しみの涙も地層を経て、清らかな水に浄化され、海に流れ出ていく。カラカラに晴れたときには、根を潤してくれる蓄水にもなる。全てので出来事は有機物であり、土の養分になっていく。時間がかかるけど、時間さえかけてやれば、どんなできごとも糧にできる力が備わっている。だからそれを信じて、見守ってやればいいだけ。
だから、本当は何も心配することなんかないんだよ。悪いことを起こさないように注意して気を張っていなくても、きっと何とかなるから。悪いことは起こってしまう。それは俺のせいじゃない。俺が不注意だったからでも、才能がなかったからでも、努力不足だったからでも、効率的じゃなかったからでも、やさしくないからでも、ダメ人間だからでもない。もし、悪いことが起きても、それを養分にしたり浄化してくれる地層が俺にはある。家族っていう愛情の地層。だから俺は安心して根を張って良いんだよ。のびのびやっても大丈夫。誰も困らない。
それでも安心を感じられなければ、今の現実を見てくれよ。今、家族が俺を見捨ててるか?あんなことやこんなことがあったのに、俺だって、自分で思い出したくないようなやってしまったことがあったのに、まだ俺のそばにいてくれているでしょ?それが事実でしょ。それは否定できる?理解できなくてもいい。俺の書く台本なら「ふつうだったら離れて行く」状態でも、実際はそうじゃないでしょ。だから、俺が書く台本はしょせん、現実じゃないってことだよ。俺が想像できる「現実」は仮想現実に過ぎないってことだよ。しょせん、その程度の台本しか書けないし、想像できないってことなんだよ。現実の世界は、もっと俺が理解できないくらいのことで構成されてるんだよ。脚本家をやめよう。監督をやめよう。一人上映会をするのはやめよう。現実の世界を見よう。
ここまで書いたようなことの断片を、昨日の夜、寝る前に考えてたみたいだ。改めて書き起こしてみると、こんな感じかな。こうやって書くだけで、言葉にできていなかったことが言葉になっていく。別に整理しようとしているわけじゃない。どちらかと言うと、あまり考えずにタイピングしてる。機械的にやっている感じで、タイプされている文字を見ながら自分でも「へー」と思ったりしている。これはセラピーみたいなもんだろう。大事なのは書こうとしないこと。思いつくままにタイプしていく。どんどんタイプしていく。評価されようとしない。誰かのために、読みやすいように整えたりしない。あくまでも自分のために書く。整えだしたら、全く別物になってしまう。それは加工物だ。出てきたものをジャッジする必要なんてないんだ。流れに身を任せる。どこに着地するかもわかならなくていい。とにかく出す。出してあげる。
書いているうちに、止めどころが分かる。今日で言えば、ここらへんがそろそろかな。出し切った感がある。書いていて気持ちよかった。また発見があった。愛情は地層。地層は、今更どこにもいかない。いけない。地殻変動があったとしても、断面がずれるだけで、各地層がてんでバラバラに分解されるなんてことはない。土砂崩れ?それは地層の一部が崩れていくことでしょ。地層は地続きでつながっている。だから大丈夫。安心して根を生やしていい。深く根を張っていい。というか、すでに張っているんだから、それに気がついて 。地表ばかり見てるんでしょ。実がならないとか、風で葉が飛ばされたとか、枝が折れたとか、そんなことばっかり気にしてるでしょ。そうじゃなくて、幹を見るんだよ。幹を太くしたかったら、まずは根を十分に張ること。思いっきり根を伸ばしてしまう。そしたら勝手に幹が太くなる。ちょっとやそっとじゃ倒れない。巨木にならなくてもいい。気持ちよく育っていけば、鳥が遊びにきてくれるかもしれない。セミが孵化するかもしれない。そういう楽しみは全部オマケだよ。初めから狙ってもできない。大丈夫。根を張れば、いい木になる。
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