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手入れする生活(29) 人間、いっぺんに変えてはいけない。

昨日5時に起きたおかげで、稼働時間が増えたのはいいが、夕方になるとエネルギー切れになった。当然ではあるが、稼働するとエネルギーを消費する。肉体的に疲れたというよりは、フル稼働している感があり、余裕を感じられないのがよくない気がした。やはり人間多少の余裕(あそび)がないと、軽やかに次の行動に移れないのだろう。がちがちにまっすぐ伸びた脚では、軽やかに動けないのと同じだ。ひざに関節がなければ、高くは飛べない。

というわけで、やはり6時起きを当分の目安にすることにした。無理は禁物である。少しずつ、少しずつ。昔見た「男はつらいよ」のいずれかの回、ラストシーンのことを思い出す。映画の冒頭で、俺は変わるんだと豪語していた寅さんが、結局大きな変化をしていないことを指摘されたところで「ばっかやろう、人間いっぺんに変わったら体に悪いんだよ!」みないな返しをして映画が終わる。いいセリフだったので、観てから十年以上たった今でも覚えている。自分が無理をしそうなとき、頑張りすぎてしまっているときに、このセリフが頭のなかに蘇ってくる。

風邪から始まった在宅保育も今週までだ。来週から娘は保育園に。僕は自宅で一人で仕事の日々だ。在宅保育は、時間配分など全く出来ないため、大変ではあるが、単純に娘と長く一緒にいられることはうれしい。毎日一緒に散歩に行く。図書館に行ったり、畑になっている野菜をみたり、アイスを買いに行ったり。布団の上で、その日したことを話し、今日はたのしかったねと言って寝る。保育園で何をしたか、たのしかったかを聞くことはない。娘が何をしていたのか知らない時間は1日のなかにない。それは幸せなことだ。

自分は何に幸せを感じるのか、それはよく知っておいたほうが良い。それを知らないと、いわゆる自分らしい人生は送ることが出来ない。幸せとは定義ではないのだ。幸せは「なる」ものではない。感じるものだと思う。幸せとはつくりあげるものではない。感じられないのは、感受性が麻痺しているときか、思考錯乱しているときか、そもそも自分を見つめることが足りないかのいずれかだ。本を読んだり、映画を観たり、話を聞いたりするのは有意義なことではあるが、有益なことだとしてしまうと、利益・無利益の対象になり、それはつまり自分の価値観を利益・無利益で図ることになる。そして損得勘定が心を占める割合が増えていく。そして効率に走る。

無駄なことこそ価値がある、とかそういうことを言いたいわけではない。そもそも、「無駄」ということばは、競争の世界のことばだ。人との比較や世間に照らし合わせたことばだ。効率の世界と密接に結びついている。「無駄なことこそ〜」なんてのはナンセンスであり、自分の人生を生きていない証拠だ。他人に舵を握らせている証拠だ。自分がやっていてたのしいと感じることを、遠慮なく、堂々とやればいい。罪悪感や後ろめたさは必要ない。でも感じてしまうだろう?それは少しずつ変えていくべきだ。でも、いっぺんに変えてはいけない。体に悪いから。

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