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手入れする生活(2)

 おはよう。今日もたっぷり9時間寝ることができたよ。起きたらお風呂場の洗濯物を取り込んで、煮沸用のお湯をタライ鍋において、その間にシャワーを浴びたよ。上がったら、体をしっかり拭いて、ベビーパウダーをポンポンする。着替えたら、メガネを洗って手ぬぐいとメガネ拭きで拭く。さっぱりして気持ちよかった。まだ、奥さんも娘ちゃんも起きていない。静かな時間。

 昨日は夕方に、娘ちゃんが海に行きたいと言うので、花火を持って3人で海に出掛けた。突然言うから、最初はいやだな、めんどくさいな、って思ったけど、こういうときは素直に言うことを聞いてあげるのが一番良かったりするのを知ってる。だから、さっさと準備してあげて、花火を持っていくことにした。
 
 そういえば、今年になって3人で花火をするのは初めてだったな。いつもは僕と娘ちゃんの2人でやるからな。まだ海は明るかったけど、花火はきれいに見えてよかったよ。娘ちゃんは煙が嫌なので、風向きが変わって、煙がこちらにくると抱きついてきたよ。最近の花火は、1本が長く持つようにできてるらしくて、火花の色も何色も変わったよ。オレンジ、ピンク、紫、白、緑、と次々と変わったよ。薬局で税込み400円しないくらいでセットで売っていたけど、これはどうやって作られているんだろう。儲かるのかな

 海は夕方で、釣りをしている人がたくさんいたよ。波の音が聞こえて、というか波の音しか聞こえなくて、釣りしている人の心の中はどんなふうなんだろうなと想像したよ。釣り好きな友達のことを思い出して、あいつは根明であんまり悩みとかなさそうに見えるけど、釣りでバランスとってるのかな。
 
 海から帰ってきて、そのままシャワーを浴びたよ。いつもはお風呂はいるのを嫌がる娘ちゃんだけど、海の後はシャワーだからね、って何回か言っておいたから、素直に入ってくれてよかったよ。いつも何とかお風呂に入ってもらおうと頑張っているから大変だけど、今日は助かったな。いつもこうだとありがたいんだけどな。

 お風呂上がりは、みんなでカステラを食べたよ。パルシステムのカステラ。娘ちゃんは牛乳、僕と奥さんは豆乳を飲んだ。そのあとは、昨日作っておいたアイスボックスクッキーを2つずつ食べた。白崎茶会のレシピをアレンジして玄米粉でつくった。玄米なので香ばしくてザクザク感があって、おいしい。僕は白米より玄米のほうが好き。味わいがある。

 奥さんと娘ちゃんの話になって思い出したけど、僕は昔から空間把握能力が低い。中学の数学は、図形問題が出てきてからめっきり弱くなった。因数分解とか方程式は得意だったけど、図形は頭に想像できなかった。ライバルだった斎藤くんに点数を抜かれて、すごい悔しかったのを覚えてる。サッカーも好きだったけど、うまくならなかったのは、空間把握ができないから、俯瞰してフィールドを見れなかったからだと今になっては思うかな。サッカーの戦術Youtubeとか見るの好きだけど、こんな風にプレーできるイメージ全くないもんな。車の車幅感覚も全然ない。追い越すときとか、右折待ちの前の車の脇を通れるか通れないかが、全然わからない。いつも助手席の奥さんに通れる?って聞いてたもんな。だめだな。運転向いてないな。大学のとき、レンタカーで車こすっちゃって、すごい請求がきたもんな。あれはショックだったな。
 
 空間把握力がないってのは、客観視できないってことだと思うんだよな。だから自己プロデュースとか全くできないと思う。残念だな。自己プロデュース力あれば、もっとツイッターとかうまくやれただろうし、有名になれてたのかな。人生、もうちょっとラクにいってたかな。稼げてたかな。だけど、これはもう諦めるしかないっていうか、逆に徹底的に主観しか出来ない人として生きていったほうがいいのだろうな。小説とかで、風景描写が全然頭に入ってこなくて読めないのも、主観で読めないからだろうな、きっと。「車輪の下」とか頑張って読んでみたけど、そっこうで挫折したもんな。興味はあったけど、面白く思えなかったんだよね。結局、人と感情にしか興味が持てないから、風景描写とか周りの部分を感じれないのかな。というか、その小説のなかでは、その風景も含めて感情の描写とかしてるんだろうけど、そこまで待てないんだよな。空間把握能力ないから、早く物事が時間軸で動いてくれないと、待てないんだよな。
 
 そうか、だから俺は時間軸に頼るんだな。空間が把握できないから、時間の差分で、物事の差分を感じ取って、体に入れようとしているのかもしれない。ってことは、差分がないと不安なの?別に、差分がなくたって、そのままの状態を保っていることだけだと何が困るの?まあ、この世の中に不動のものなんてないんだから、実際は変わらないことなんてないんだけど。
 
 いやいや、こういうときは何が困るか?とかみたいに、原因とか問題を探そうとしちゃだめなんだよ。自分がそれを求めている、欲しているということをそのまま受け止めること。受け入れること。なんでだろう?って考えるのって、自分に興味があって、探究心があるように見せかけて、実は自分に自信がないからだったりするんだよ。きっと。自分のことをそのまま受け入れるには、自分が怪しすぎるから、他の考え方を求めようとするんだと思う。他の偉い人、尊敬できる人の本を読んだり、ネットで調べたり、ツイッターみたり。そんで、良さそうな考え方を見つけたら、その考え方に自分をフィットさせる。整形する。
 
 これは精神的整形手術だよ。自分の持っているものに自信がもてないから、今の自分じゃダメだと思っているから、人から見るに耐えうるものに整形しようとする。自分が納得できそうな形に整形する。そうだったんだ。これは整形だったのか。自分の内面に納得できなければ、何回整形しても、終わりはないかもしれないな。自分を受け入れること。自分の美しさを知ること。これを俺自身が自覚して、知っていないと、もし娘ちゃんが同じような状態になったとき、体感として話してあげられない。推測でしか話せないことには説得力はないからな。親として話せることは実体験のことだけだと思ってる。それ以外はただの推測だから、そんなの娘ちゃんに話しても何の身にもならないし、参考にできない。逆に、そんな推測話に付き合わさせていたら、娘ちゃん自体が実感の伴わない人生を送ることになってしまうよ。推測話をするのであれば、娘ちゃんの体感値に基づいた推測で決めてもらったほうがずっと価値がある。それが人生を生きるってことだから。

 主観的な人生。俺にはそれしか送れそうにないなら、今まではなんて真逆な人生を送ろうとしてきたのだろうと思う。自分で全く逆方向に進もうとしていたんだ。なるべく客観的であろうとしたし、平等で差別がない見方をしようと努力していたな。それはとても大切なことなんだけど、実際そうはできない自分に苦しんでいたじゃんかね。今で言えば、マスクをせずにたくさん話しながらレジに並んでいる家族とか、広い道でわざわざソーシャルディスタンス全無視で至近距離ですれ違おうとするオジサンとか、そういうのが嫌で仕方なかったけど、それに文句言う自分も嫌いとか。そういうギャップに苦しんできたでしょ。中立、客観を好んできたでしょ。そうじゃないんだよね。空間把握能力がないんだから、主観でしか考えられない。これはもう諦めてしまったほうが、健康的に暮らせる。人のことを考えないように生きるとかではなくって、まず自分が健全に生きることを最重要視する。それが結果的に、健全な気の波になって、周りにもいい影響が出るはず。
 
 これからは徹底的に主観的に生きればいい。中立を保ったり、客観的でいたかったのは、自信がないから。自分の考えをど真ん中において生きていくことに自信がなかったから。それをしないで済むように、客観に逃げてただけ。これからは自分をど真ん中に、自分の直感や感情を無条件に受け入れてあげる。支持してあげる。叶えてあげる。自分の味方になってあげる。そういう人生にする。

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