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ありがとう、いいね

昨日久しぶりにnoteで文章を書いた。誰かに何かを届けたいという気持ちよりは感情に正直に独り言をオープンなものに書くという行為自体が僕にとって思ってたより大事だと気づいたからだ。言葉にするときに気付くこともあるし、書いた言葉を見てから気付くこともある。

毎日決まった何かをやることを自分とは約束しないようにしている。必ずその約束をやぶり、自分への信頼をなくしていくことを知っているからだ。連絡帳も宿題も日記もひとつとして続けられたことがない。登下校も、今だって駅から家までの道も、同じ道を毎日歩くと漠然とした死を感じて気が狂いそうになる。

僕にとっては日記を書くことも死の恐怖だ。重複や時間を感じるものはだいたいそう。だから腕時計も苦手だったりする。昔TSUTAYAで映画を選んでいるときに、「生きている間に全部観れないんだな」と気づいてTSUTAYAで泣いた。

以前、承認欲求について話になったときに、自分には承認欲求というものがあるのかないのかわからないと言ったことがある。他人からどのように評価されるかはやはりほとんどのことに比べてあまり重要ではなさそうだ。ただ、自分はここに存在していていいのか?という存在価値を揺るがすものには徹底的に恐怖を感じる。

きっと無条件で存在していていいと思うことはこれから死ぬまでないのかもしれない。だからこれまで物心ついてからずっと何かしらを頑張ってきたのだと思う。存在に価値があると信じるにたるものは証明できないけど、何かしらの才能が自分にあることは知っている。「普通」にしているだけでいろんな「特別」なことが起こってきた。めんどくさいと思ったこともあったけど、わりと今はその何に使えるのかよくわからない才能が好きだ。

才能は説明できたときに能力となり、全体の需給の中でそれが必要な何かと結びついたときに結果になるのだろう。それはずっと見つからないかもしれないし、いくつかはみつかるかもしれない。今、完全にわかっちゃったらそれはそれで余生が暇だ。

存在と才能に対するねじれに気づいたのは、褒められても嬉しくない自分を知ってしまったときだった。小学生のときに、いいねと言われても勝手に評価すんなと思っていたし、すごいねといわれても努力してない奴が上から勝手に評価すんなと思ってしまう自分は素直じゃない曲がった人間だなぁと思ったことがある。それは今もあまり変わらずで、これだけSNSをやりながらも、やはりいいねは苦手だ。どうしても評価に見えちゃうから。

(noteのボタンの名前がスキなのもmtgでそんなお話あったんじゃないのかなぁと勝手に想像している。)

そんな天邪鬼な自分も、欲しくて欲しくてたまらないものがある。ありがとうだ。ありがとうをいわれると、とてもうれしい。

いいねには本当のいいねと嘘のいいねがあるけれど、ありがとうは割と本当なんじゃないかなと思っている。本当しかないのであれば、もらうことはいいねより難しい。ありがとうをもらえると、心に触れられたような感覚があって孤独から解放される。ありがとうをもらえたときは、存在してていいんだなって思う。

なんでこんなことを書いていたんだろ。この一年で僕のいろんなものに対する考え方や感じ方は大きく変わった。働くということや自分の仕事に意味を求めるひともいれば求めない人もいるだろう。僕は割と全てのものに意味を求めてしまうし、働くこともそのひとつだ。

なんで仕事をしているんだろうと考えることが増えた。いろんな理由があるけれど、当たり前すぎて気づいていないことがあった。昨年はFacebookのプロフ写真にfor meと書いていた。自分のために生きるということが割としっくりきていて、物理的にも精神的にも自由な状態であるために全ての行動は紐づいていた。

自己完結できると思っていたそれは、どうやらできなさそうだ。毎日酸素のようにもらっていたありがとうを聴けなくなっちゃったからだ。存在してよいのか日々揺らぐ。やっぱり3Dの人間がありがとうをいうときの声も顔も、きっと出ている感謝オーラも、それはとても格別だ。仕事終わりや風呂上りの一杯目のビールが格別なように。ありがとうも生搾りが一番だ。

今自分でも不思議なくらい勉強している。採用のこと、DXのこと、マーケティングのこと。知的好奇心が自分にあるのかはわからない。けど確実に意思持ってやってる。自分の為だけに頑張るのは限界がある。でもやっぱり自分以外の誰かのためには頑張れそうにない。そんなやつが、社会で健全に何かをやるためには、ちょうどいいご褒美がありがとうなのかもしれない。

やっぱり欲しいから。それを相手に求めはしないけど、いつか気づけばまたもらえるように、今できることをやろうと思っている。

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