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あの空の向こうに(民衆のユートピアはどこへ行ったか)

宇宙へ行きたい投資家さんたち

今年のいつごろであったか、民間企業によるロケット打ち上げの報道があった。宇宙への旅のロマンを担うのは、今や民間の企業家たちらしい。世知辛い世の中で夢を与えてくれるよいお話なんだろうくらいに思ったわけだが、よく考えてみると、まだ直接金儲けにはならないような事業に才能や投資が集まるのは宇宙開発だけじゃない。なぜあの計算高いはずの起業家や投資家さんたちがこうもロマン主義者になったのか、やはり資本主義の行き詰まりと関係がありそうだ。

ヨーロッパで生まれた資本主義は莫大な富を産み出した。だけど、それが仇となって資本過剰となる。増え続ける資本に対して投資の機会が相対的に減って、投資に対するリターンがゼロに近くなる。で、安い資源や労働力、新たな投資機会を求めて、ヨーロッパ資本は世界に流れ出す。資本の流れに伴って、人も新しい生活を求めて新しい土地に流れ出す。でも、この資本主義のグローバル化が一段落してしまうと、またカネ余りの問題が生じる。地球上のどこに投資してもそれほどの利益は見込めない。後は宇宙だということになる。

ユートピアの探求

資本の論理はともかく、地球上では失われたフロンティアを空の向うに見出そうとするのは庶民にとっても悪い話じゃない。今じゃ、地上のどこに行ってもおいしい話は転がっていない。ゲーテなどが自由の土地として憧れたアメリカもその魅力を失った。我らが満州国も夢のまま潰えた。ソ連や中国、キューバや北朝鮮の科学的社会主義の実験もみな失敗におわった。

ファウスト博士にせよ、石原莞爾にせよ、いまやユートピアは地上では実現しえないことが誰に目にも明らかになった。これじゃ、人類は夢も希望も持てない。がんじがらめの現生活から解放される道は再び死だけとなった。その死後の世界にも自分らはあまり期待していない。こりゃあ、重力に逆らってでも地球を抜け出し、天上の世界に新しいフロンティアを切り開く理由がある。そこには、まだユートピアを建設する余地があるかもしれない。

しかし、どうも庶民はこの起業家さんたちの熱意をあまり共有してなさそうだ。海外にさえ住みたくない人たちが増えている日本で、宇宙に飛び出したい人がそんなにいるとは思えない。かつてはSFを通じて宇宙への夢を育んだ庶民は、いつのまにか企業家や技術者たちより保守的な人たちになった。

なぜかというに、思想の問題だと思う。『何をなすべきか』というロシア小説がある。十九世紀半ばにチェルヌィシェフスキイという進歩的知識人が獄中で三か月で書き上げ、ロシアのナロードニキと呼ばれる革命青年たちのバイブルとなった書である。検閲を潜り抜けるため(?)恋愛小説のかたちをとっているが、一種のユートピア小説でもある。

ユートピアというのは「どこにもない場所」という意だけあって、もとは哲人の頭のなかだけに、大分時代が下っても、どこか遠い海の向こうに浮んでることになっていた。チェルヌィシェフスキイは、それが社会のど真ん中、われわれのすぐ隣にありえることを示した。つまり、因習にとらわれない合理的な若い人たちが育って、新しい事業をどしどし起こしている。彼らの新鮮な思考にかかっては、貧困問題だろうが三角関係だろうが答えを見出されずにはおられない。

物質世界の鍵をとく理性は、精神世界や社会における問題をもいともたやすく解決する。いや、先入観をもたずにちょっと考えれば、問題など初めから存在しないんである。ちょちょっと紙片に計算を書きつければ、答えはすぐ出てくる。なんで、今までこんなことに気づかなかったかなあ。

気づかないのは因襲に囚われた老人が悪いんである。近代政治は伝統対革新の政治であり、世代間対立の政治でもある。不自然に人間性を歪められた老人の支配に対して、自然で純粋な心を持つ若者が反乱を起こすんだ。漱石の『三四郎』の廣田先生がいうように、今までの偽善に代わって露悪が流行るんであるが、それだけじゃ前進する希望は生れない。そこには何らかのユートピア像が示されないとならない。これを『何をなすべきか』が極めて身近に示したんである。

失われたユートピア

この時代にはまだこんな小説が書けた。そして、それを読んで信じることができた。「どうしてこんなことに気がつかなかったかなあ!」と多くの人が考えることができた。ちなみに、若き日のレーニンもアイン・ランドもこれを読んで感銘を受け、一方は共産主義の、他方は新自由主義のイデオローグとなった。

今日、この『何をなすべきか』に匹敵するような文芸作品を想像するのはむずかしい。詩人たちの腕が落ちたんではない。読者の方がそう楽観的な見方ができなくなった。どうやら、専制君主の圧制に苦しんだロシア社会に比べても、夢や希望が持ちにくくなっているのがわれわれの社会らしい。想像の余地がえらく狭くなった。どんな優れた詩人でももはや庶民を納得させるユートピアを描けない。だから、その想像力がディストピアの方にばかり向けられる。理想郷への心理的欲求は、未知の未来の可能性の探求ではなく過去のシンボルを操作することで代償される。

言ってみれば、天から降りてきたユートピアは、再び天上に去らなかった。地上で泥まみれになって、人々に踏みつけられ、こなごなになって散逸したんである。だから、自分らは再び天を仰ぐ気にはならない。あの空の向うにどんな社会がありえるのか。ここの生活とちがうなにかが可能なのか。そんな想像をかきたててくれない限りは、宇宙へのロマンも一部特権階級の道楽にしかならんと思ってる。これは人工知能でも遺伝子工学でも同じである。ドラえもんやアトムもまた古き良き時代のユートピアとなり懐古の対象となっている。

ついでに、ユートピアを駆逐した社会科学や人文諸学も一般庶民との縁が薄くなって、その社会的意義は地に堕ちた。レーニンの思想にしてもランドの思想にしても、ユートピアはもう少し遠くに置いて眺めとくべきだったなという結果しか生まなかったんだが、いざ失ってしまうとその必要を感じるもんである。さて、どこにユートピアを置いとくかな。

(1年ほど前に書いた文章であるが、このたび Wolf's Rain というアニメ番組を娘と一緒に見たところ、人間の堕落と救済の物語であって驚いた。堕落して「犬」となった人間は、世界が滅亡しつつあることにただ絶望するか、さもなければ何ごとも起こってないようなフリをして思考を停止し、日常に埋没する。高貴な心を持つ「狼」だけが、空の向こうにあるユートピアを目指して走り続ける。果たして原作者に何か宗教的なバックグラウンドがあるのかどうかわからんのだが、無意識のうちにこんな宗教的物語を書いてしまうなら、なおさら興味深い。そしてそれを見て自分の娘のような若者が感動している。あきらめ、絶望しながらなんとか生をつないでいるような民衆の心にも、千年王国思想みたいなものがいつでもくすぶっていた。社会主義の実験が失敗に終わっても、どうやらユートピアへの憧憬はなくなっていない。まだぼくらの心にも「狼」の情熱が潜んでいる。)

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