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ピカチュウやロリコンが増殖する社会はどんな社会か

割引あり

昨年末の新聞の書評欄に『キツネを飼いならす』という翻訳本の書評が掲載されていて、興味深いことが書かれていました。自分も長いこと「家畜化」や「かわいい」の美学に関心をもっていたんですが、その二つはつながってなかった。それがつながるような話だったんです。本を買う金がないので図書館で借りられるようになるまでは読むことができないんですが、とりあえず短い書評を読んで考えたことを今回の話のネタにしようかと思います。


家畜化と「かわいい」

さて、野生のキツネというのは元来人になれないものらしいです。それでも比較的おとなしい個体を飼いならしてその子孫を増やしていくと、家畜化されたキツネができる。この本の著者たちはそれを実際にやってみたらしいんですね。

このばあい「家畜化」というのはこういう意味です。野生のキツネと違って、人に慣れたキツネは餌を人間から与えてもらう。外敵などから人間に守ってもらう。ですから、自分で餌を捕らえる能力や自衛のための能力は、生存のために必要ではなくなる。そうではなくて、人間に好かれることが必要になってくる。ですから、人とのコミュ力が発達したキツネができてくる。どうもそういうことらしいです。

ところが、興味深いことに、そうやって家畜化されると、外見まで変わってくるようなんです。ピンと立っていた耳が垂れて、尖った鼻が丸くなってくる。犬みたいになる。思わず手を伸ばして撫でてやりたいようなものになってくる。つまりかわゆくなるんです。

不思議な話なんですが、「かわいい」という形容詞は、ぼくらがある対象について抱く評価です。ですから、耳が垂れて鼻が丸い個体を、そうでない個体よりもぼくらはかわいいと感じる。そういうことになります。

とすると、問いは、なぜそのような個体がぼくらにそういう評価をいだかせるのか、それはどういう評価なのか、ということです。想像するに、野生のキツネというのは、下手に手をだして撫でたりしようもんなら噛みつかれかねないような獰猛さ、荒々しさがあると思います。それが自然で生きる上で必要な性質なんですね。ところが、家畜化されたキツネにはこの特徴が和らげられてる。もう撫でても噛みつかれない。むしろ向こうからすり寄ってくる。そういう個体は垂れた耳とか丸い鼻を持ってますから、ぼくらはそうした特徴に従順さ、温和さの徴を見てとることを学習して、それを「かわいい」と表現する。そういうメカニズムが働いているのではないかと思われます。

つまり、家畜化されたキツネがかわいいと感じられるのは、脅威を感じさせないから。そういう話になると思います。これは直観的にもありそうな話です。ぼくらが「かわいい」と形容するものは、自分に脅威を感じさせないものです。怖くないんですね。

「かわいい」は正義

でも、だからといって、「かわいい」=「怖くない」にはならない。というのは、怖くなくてもかわいくないものがいくらでもある。虫けらのように、怖くないのに、手をだして愛撫したくなるどころか、軽蔑されたり、嫌悪されたりするものがある。これに対して、かわいいものには思わず愛撫したくなるような積極的な性質がある。

ここで、「家畜化」というものが重要になってくる。はじめから怖くないもの、弱いもの、すなわち接する者を脅かす力を有していないものは、かわゆくない。そうではなくて、潜在的には脅威であったものが家畜化されて、もう他を脅かす力を感じさせなくなったような状態を、ぼくらは「かわいい」と感じる。

たとえば、普段はこわもての人が人間的な弱さを垣間見せたようなときに、「あの人にもかわいいところがあるんだな」などとぼくらは言います。「あいつの弱みを掴んだぞ」というような意味ですね。そうやって、怖い人でも部分的・一時的に家畜化してしまうんですね。

一般にかわいいものと言えば、赤子とか小動物のようなものです。赤子のかわいさもその無力にあるんですが、それだけではない。この子が成長すれば他人に脅威を与える力を有する大人になる。だけども、子どもでいるあいだはこの脅威を感じさせない。犬や猫のようなものも、潜在的には人間に脅威を与えかねない野生の動物が家畜化されたものです。

つまり、人に「かわいい」と思わせる性質というのは、潜在的に脅威たりうるものが家畜化されて、もう脅威ではなくなっている(あるいは、まだ脅威ではない)。そういうものではないかと思います。それが支配欲を満足させたい、脅威から解放されて安心したいという心理に結びついて、「かわいい」を肯定的価値にするのではないかと思います。

ですから、一般的に、かわいいものを好むのは女子どもの趣味だと考えられています。なぜなら、女子どもの方が成人の男より脆弱で、脅威に敏感たらざるをえないからですね。

「かわいい」増殖の要因

ところが、最近の世相の一つに、「かわいいもの」の増殖が挙げられるかと思います。ひと昔前に比べると、女子どもにかぎらず、男たちもかわいいものを求めるようになっているように見えます。それだけではなくて、自分もかわいくなろうと努めるような人が多くなっている。

印象論ですが、自分が長く暮らした諸外国と比べても、ここ日本は特に「かわいいもの」好きが多い。そして需要があればそれに応える人たちが出てきますから、「かわいい人」もずっと多い。他人に脅威を感じさせないようにひどく気を遣ってる人たちですね。そうしない人々は、嫌われないまでもちょっと敬遠されるようなところがあります。

そう感じられるのは、自分が古い世代に属した男で、しかも日本の主流文化たる大衆文化からちょっと距離を置いて育ったからかもしれません。自分はあんまりかわいいものを求めません。自分がかわいいなどと思ったこともないし、なりたいと思ったこともない。もちろんかわいいものが嫌いなわけではないですが、かわいいだけのものは心の底でどこかバカにしてるようなところがあります。でもそういう変わり者であるから、他の人が空気のように意識してないような文化環境に違和感を感じられるのかもしれない。あながち偏見だけの産物とは言えないんです。

さて、そうなると、次のような問いも浮かんできます。ここ日本では、年々かわいいもの好きが増えているのはなぜなのか。女子どもだけでなく、男までがかわいいもの好きになっているのはどういうわけか。

前段の仮説が正しいとすると、次のような推論が可能かと思います。近年、何かに脅かされているように感じている人々が増えているからである。この「何か」にはいろいろあるでしょうが、かつての女子どものように脆弱な立場に置かれて、他人の庇護なしには生きていけない者が増えていて、その不安の反動として、かわいいものが与える安心感を得ようという需要が高まっている。そういう仮説が立ちます。

この点に関しましてひとつ自分が気づいたのは、ピカチュウのようにかわいいけど強いキャラの増殖です。力があるけどかわいい、あるいはかわいいけど力がある。ツヨカワなんていう造語がなされるほど、そうしたキャラが一つのカテゴリーとして成立してる。

これも前述した不安と結びつけると、理解可能なような気がします。世のなかがかわいいものばかりであると、そもそもそのかわいいものを外敵から守ってくれる力をもつ者がいなくなってしまいます。ところが、ピカチュウは強い。力がある。だけども、その力は外敵にとっては恐るべきものですが、身内には決して向けられない。外に向かっては容赦なく暴力を行使しようとも、内にはあっては頭を撫でてもらって喜ぶ従順さをもっている。これも決して新しいものではなくて、「気は優しくて力持ち」というのが昔からの英雄の一つの型ですが、どんどんどその耳が垂れ鼻が丸くなっていくのは興味深い進化かと思います。

ロリコンのピカチュウ

もう一つ、この点に関連して考えたことがあります。もうほとぼりが冷めたでしょうから話題にしますが、以前に地方選挙の結果に対するネット世論を観察しようとツイッターを開いたら、平成男のロリコンとケチの話題で埋められていて、苦笑させられたことがありました。昭和の男はケチでもロリコンでもなかったというようなツイートが火付け役であったかと思います。

ですから、珍しいことに、男嫌いの女たちと昭和生まれのおじさんたちが、平成生まれの青年たちに対して共闘してる。こんな機会はめったにありません。思わず便乗して若者叩きをする誘惑に駆られたんですが、どういうわけか、ちょっと躊躇してしまいました。というのは、実はロリコン趣味というのは、すでに自分たち昭和末期の世代に見られる潮流であったんです。

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コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。