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「哲学する」と「哲学をする」のちがい

大学は「哲学する」ところ?

大学はヨーロッパ中世に起源をもつ古い機関であるが、その内実は歴史とともに変わってきた。基本的にはきわめて保守的な組織であって、何度も時代遅れになってその存続が危ぶまれたが、誰かが必要としてるらしくて、そのたびに時代の流れに合わせた改革が行われて、今日まで命脈を保ってきた。

一般的には、今日の(崩壊しかかっている?)近代的大学のモデルは、19世紀初頭のドイツ(当時はドイツという統一国家はまだないんだが、ドイツ語圏の大学間のつながりはあった)に設立されたベルリン大学に求められる。その際、プロイセン政府から何人かの有識者に意見が求められたのだが、当時気鋭の哲学者であったフィヒテもその一人であった。

その意見書に、大学は「哲学をする」場所ではなくて「哲学する」場所であるべきであると、フィヒテは書いてる。彼の構想では、神学、法学、医学という専門的実学(当時神官は人気のある職業のひとつであり、神学は坊主になるための実学という一面があった)に進む前に学ばれる一般教養の位置づけであった哲学こそが、大学教育の中心に据えられるべきであった。だが、その哲学とは、「を」がつかないほうの哲学らしいのである。

必要に迫れていやいや哲学書を読まされてる、自分のようなモグリの哲学徒にはよくわからんのだが(しかも翻訳で読んだので、原典ではどういう言葉が使われてるのか想像するしかない)、「哲学」と「する」のあいだに「を」を挟むかどうかで、同じ哲学をやっていても雲泥の差になるらしいのである。そうなると、哲学に親しんでいるような人々にも、二種類の哲学徒がいることになるから、油断がならぬ。

哲学を勉強してる≠「哲学者」

そういえば、哲学を修めた人は自らを「哲学者」とは呼びたがらないから、彼ら自身がこの区別を認めているかもしれない。経済学者とか生物学者とかとちがって、哲学者という言葉には哲学を専門で修めたという以上の意味がある。ソクラテスとかプラトンみたいな「巨人」の尊称が「哲学者」であって、自らが名のるのは僭越である。そう思われているようである。

言ってみれば、「哲学する」のは哲学者の本分であって、一般の哲学徒は「哲学をする」だけ。過去の巨人の肩に乗せてもらって、遠くを見せてもらってるだけ。「哲学をする」のはその気になれば誰でもできるけど、「哲学する」のは一種の秘儀であって、小人がやろうと思っても簡単にはできない。選ばれた少数の者だけがこれをなしうる。そういう哲学観がいまだに根強い。

だが、フィヒテは、この密教的な哲学観を否定したようなのである。「哲学をする」だけでは不充分であり、すべての学生に「哲学させる」ような大学を要求した。わからないなりに、彼の意見書に書かれていることを解釈すると、次のような話である。

もうすでに誰かが書いたことは、誰でも自分で読んで勉強できる、大学の講義はまだ書かれてないことを伝えるべきだし、学生はまだ書かれてないことについて考えさせるようにしないとならない。換言すれば、すでに提出されている問題の解決法を学ぶのではなくて、まだ解決されていない問題を解決すること。これが大学で課される課題である。

この大学での教育は、ギムナジウム(大学進学の前提になる高等学校)で教えられる哲学の教授法に対置させられてる。ギムナジウムでは基礎的なことを覚えさせることに重点がある。そこでは哲学は理解すべき対象として外からあてがわれたものだから、目的語として扱って「哲学をする」と言える。さらに言えば、目的語の哲学が「なされる」ことが重要であって、主語が誰かは重要でない。誰でも同じことを学ばされるから、哲学をする自我(エゴ、ホンモノの私)はまったく問題にならない。

大学はそうではない。ほかの誰でもない「私」が哲学の主語にならないといけない。つまり、一人一人の学生が、自分で「哲学する」のである。言うなれば、フィヒテが説いた自由な自我、当時の若い世代に熱狂的に受け容れらたを哲学を実践する場として、大学が求められている。

博識は必要だけど十分じゃない

こんな理想は、フィヒテの時代の大学(まだ少数のためのエリート養成機関という性格が強かった)においてさえ実現されなかったと思うんだが、今日みたいに「哲学をする」人のほうが、自分で「哲学する」人よりえらいように感じられるようになったのは、哲学が専門教科化しすぎて、哲学教育の本来の精神を失ってると考えた方がよいんでないか。そういう問いを突きつけられるエピソードである。

自分だって、地道な努力で基礎を固めていく必要を否定はしない(ただ、それが大学以前と大学の教育という風にきっちり分けられることを疑問に思うだけである)。特に人文系学問では、閃きはたいがい博識という土壌を前提とする。知識が貯まらないと、ありきたりのアイデアしか浮かんでこないから、ある程度の知識の密度がいる。

だから、より純粋に理論的な学問より敷居が高い。修業に余計に手間暇がかかる。他人より多く読書をして、たくさんのことを知っていることが必須の条件になる。一般教養という言葉自体に、そういう含意がある。「広くて、しかもできるだけ深く」という無茶な要求が含まれてる。

だけど、いくら大変だからといってそこで立ち止まってしまうと、博識もあんまりありがたいものじゃなくなる。物知りの学校の先生になるのが関の山だ。フィヒテもギムナジウムの哲学の先生になるには、「哲学をする」で十分であるとしていたと思う。

ところが現実は厳しくて、いくら哲学しようという大望を抱いても、多くは飯を食うために学校の先生をやらないとならなかった。そうやってるうちに、学校の先生になるために哲学をやる者も増えてくる。だが、そうなると、どうしてそんなものを学校でみんなに教えるか、専門家になる人だけでいいじゃないかという話になるし、実際にそうなった。

哲学が他の生活領域からは分離されて、学校だけで教えられるものになったときから、そうなるほかなかったと思う。それを再び社会的なもの、実践的なものとつなぎ合わせようという努力が、現代思想に現われてきたのも不思議じゃない。

「考える」と「為す」

みんなの大好きなハンナ・アーレントの絶筆は、「思考(考えること)」についての本であった。その扉の頁の一節を書きかけたところで亡くなった。だから書かれなかった書なんだが、遺された著作からその輪郭だけは想像できる。思考は行為の一時的な中断。両者は乖離したものじゃなくて、時間軸上でつながってる。行為のない思考も、思考のない行為も不完全なものにしかならない。

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