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「知識人」とは

知識人と呼ばれる人々がいる。もしくは、かつていたのだが、今は絶滅寸前であるとか言われる。しかし、この知識人とはいったいいかなる人々であるのか。

知識人ではない人びと

この知識人というのは職業ではない。大学教授即ち知識人ではない。むしろ、タコツボに籠った専門家の先生方は、明らかに知識人ではない。

知識をたくさん持っているのが知識人だというのも怪しい。百科全書的な知識を持つ人は「物知り」とは呼ばれようが、知識人とは呼ばれない。実際、知識人は誤訳である。インテリゲンチャとかインテレクチュアルの訳語だから、語幹はインテレクト、つまり知性である。だから、知識が多いのが知識人ではない。「知性人」とでも訳す方が正確なのあるが、火星人の親戚みたいになってしまうから「知識人」としたのかもしれない。

知識人にはリベラル革新に傾いている人が多いので、時に左翼の一形態と混同される。だが右翼の知識人もいるから、特定の思想傾向やイデオロギーの問題でもない。科学者にも知識人はいるけども、それは自分の専門を超えたところで発言する部分についてであるように見える。純粋に自然科学的な知見は、どうも知識人にとっては十分な教養ではない。

では、何が知識人を知識人たらしめるのか。

知識人をポジティブに定義するのはむずかしいので、知識人ではないもの、知識人が自らの敵として闘ってきた者を考えてみた方が早い。それは「大衆」とか「俗物」とか「小市民」なんて呼ばれてきた。ハイデッガーの「頽落した現存在」なんてのもそうだ。この大衆とか小市民とはいかなる人々か。なぜに知識人はこの気の毒な人々を毛嫌いするのか。

思考しない人びと

この人たちの罪状は長い(平板、狭量、無個性など)のだが、つきつめると「思考しない」という点に還元されると見ることもできる。思考する能力がないというよりも、思考することを拒む人々である。

もちろん、ここでいう「思考しない」というのは、何も考えないという意味ではない。大衆だって小市民だって何かは考える。人一倍忙しく考えている人だってある。

そうではなくて、「思考する」というのはこの場合、自己を周囲世界からは一旦切り離して、結果には関係なくある考えを最後まで考え抜くということである。言い換えれば、それは生活過程の中断である。

そんなことをする暇を惜しんで、外的世界に働きかけて、取れるものを取ってこようという能動的な生を生きるのが大衆であり小市民である。行動する前に、頭の中でだけでごちゃごちゃ考えて身動きがとれなくなりがちな知識人とは対照的である。

だからお互い嫌うわけだが、ここで知識人の言い分はこうである。彼らのいう能動性とは、環境に適応することに止まっている。つまり、自分が投げ込まれた世界を所与のものとして、そこにあるモノやヒトを外的に操作することによって、自己の生存という目的を達するだけである。その手段が巧妙になっているというだけで、やっていることは動物と変わらない。

否、それでは動物に失礼だ。動物が投げ込まれるのは自然界だが、人間が投げ込まれるのは歴史的・社会的世界である。それは自然を基礎に築き上げられたものではあるが、自然の延長ではない。人間がその意志をもって自然から切り取った時間・空間であり、人間の精神が刻印されている。

その歴史的・社会的世界は自然なものではないから、我々がそれが現実であるかのうように振る舞うことによってしか再生産されない。それを自然的環境と勘違いして、「自然に抗っても無駄さ。壁に頭をぶつけるようなもんだよ」と言うのが、大衆であり小市民である。その勘違いこそが現実を「自然なもの」として再生産するのである。

じゃあ知識人は何を思考するのよ

しかも(と知識人は続けるだろう)、永遠の法則に従う自然と異なり、そうした歴史的・社会的世界は、我々が変えようとも思っていないのに変わっていく。だから、やっぱり人間の力を超えた「運命」みたいなものに操られていると考えたくなる。

でも、そうした変化もまた、人間の行動によって引き起こされている。外の世界に働きかけて取れるものを取ってこようというその態度、それこそがまさに歴史的変化の理由たりうる。ただ、それが意図された結果ではないから、天から降ったか地から湧いて出たかのように思われるわけである。

そうなると、大衆とか小市民とか呼ばれる人たちは、自然でないものを自然だと思いこみ、運命でないものを運命だと思って受け容れ、そうした自然とか運命に対して受動的に適応しようとする人々のことである。自分で自分を鎖でつないで、それに気づかない者である。つまり、世界については知識を持っているかもしれないけど、自分自身を知らないのである。

自分の行動の原因も結果も知らないから、自分たちの過去の決断がもたらした結果に対する責任もとれない。そして、往々にして、これらの人々が思考の敷居の前でしり込みするのは、まさに過去の行きがかりの責任を背負いたくないからである。その意味で、大衆とか小市民というのは単に非科学的であるばかりか、人間として弱い、もしくは非道徳的ということもできる。

これに対して、知識人というのは、自然や運命、不可避とか必然とされるものを疑ってかかり、その裏に人間の手を見い出そうとする者である。自然界だけじゃなくて、歴史的・社会的領域における自由と必然の境界線を引き直そうとする者である。世界を引き受け、また自分の決断がもたらす結果に責任を持とうとする人々である。

自分が投げこまれた世界は、自分の思い通りにはならない。しかし、それを自然とか運命としてただ受け容れるのではなく批判する。この意味での批判というのは、ただ愚痴や文句を言うことではない。それが成り立っている歴史的・社会的な行きがかりを突き止めようとすることである。

人間としての自己を省察することによって、これを行うのが知識人である。この省察によって、時代に縛られた自己を、完全にではないが解放することが可能になる。だが、そのためには、一旦は自らが投げ込まれている世界から自分を疎外しないとならない。知識人が人格を持った個人でなければならないのは、このためである。往々にして知識人が現代の文脈を無視して書かれた古典に沈潜するのも、ひとつはそのためである。

もちろん、完全に自分を世界の外に置くことはできないのであるが、バラバラの世界を頭の中で構成しているのは自分自身であるという自覚を持たなければならない。だから、外の世界だけじゃなくて、思考する自分の頭の中を外から思考の対象とする再帰的な思考(自らを振り返る思考)が必要となる。

これを要するに、知識人は「自然」とか「運命」というブラックボックスをこじ開けて、中身を確かめてやろうとする。自分の頭の中でさえ家宅捜査の対象としてしまう。たとえ、それがパンドラの箱を開けることになるとしても。そういう人々である。確かに、ちょっと悪魔的な連中である。神に叛逆するロマン主義的なところがないと、とても知識人にはなれないのかもしれない。

そうした意味での知識人を増やすか、もしくはせめて知識人を理解する層を厚くしようと思うのならば、今の教育にもう少しロマン主義的な要素があってもいいのかもしれない。現代の教育はあまりに無味乾燥なものになりすぎてはいないか。

知識人=自分を笑う小市民

「知識人」などという言葉が反感を買いやすいのは、多くの人は自分が知識人だと思えないからである。知識人が無視しうるマイノリティであったころは、そんなことを気にする人も少なかった。だけども教育が立身出世に直結して、「頭の良さ」というよくわかんない基準だけで人の価値を判断する頭の悪い連中が増えると、自分より頭がよさそうな奴がいるというのが我慢がならない。

そうして「知識人」が賢さ一般と結びつけられて、個人の生来の属性のように考えられると、「知識人」と「小市民」「大衆」の間の溝は飛び越え難いものになる。「知識人」は一種の貴族階級になる。

さらに悪いことに、ただ人を見下したいがために、知識人の言葉遣いとか悪癖だけを真似する奴も増える。それで、「知識人」というイヤミな奴らがいて、いつでもわれら「小市民」や「大衆」を俗物だと見下しているという話になる。そのうちに上から目線で理屈をこねる奴はみんな「知識人」だという話になって、反知性主義がはびこる。

反知性主義には立派な根拠がある。たとえば、ドストエフスキーなんかの小説を読むと、この「小市民」たちが好んで毒気のある揶揄の対象になってる。卑屈な人間の心理を描かせたら、ドストエフスキーの右に出る者はいない。だから小説なんかを読むような人たちは、自分がちょっと大衆社会の上に立ってるような気になる。それで、そんなものを読んでる奴を世間は警戒する。

だが、ドストエフスキーを好む方も嫌う方も忘れがちなことが一つある。彼が好んで嘲笑する卑屈な小市民というのは、実は彼自身の分身でもある。彼が描く卑俗な人間が真に迫っているのは、彼自身がそうした人間を知りすぎるほど知っているからである。

平民出身の作家であるドストエフスキーには、トルストイやツルゲーネフ、クロポトキンのような貴族出身作家の鷹揚さを持つ余裕がない。つねに他人から貶められるかとびくびくして暮らしている。だから、知らず知らずのうちに卑屈な態度になる。嫉妬深い凡庸な小市民になる。そんな自分を対象化して嘲笑しているのである。

つまり、今日では知識人の一つの典型であると目されるドストエフスキー自身が、自分自身の中に小市民を見ていたのである。そうなると、小市民というのは乗り越えるべき自分自身である。そうすることによってしか知識人になれない。だが、身についた卑屈はそう簡単には抜けない。自分自身の分身を小説の中で揶揄することによって、かろうじてそれを対象化するのである。

してみると、知識人というのは、自らを省察し書くことによって大衆とか小市民から脱しようともがいている人たちである。なぜなら、彼ら自身が大衆であり小市民として生きているからである。知識人の大衆批判で批判されているのは必ずしも他者ではなく自分自身なのでもある。

だとすると、ドストエフスキーの小説に描かれる小市民をいくら笑ったところで、そこに自分自身の姿を見いださない者は決して知識人にはなれないかもしれないから、読書家の諸君も安心していられない。

(2019年3月14日に書いたものに加筆)

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