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怨まれて怖いのは義理堅い優等生たちであるということ

自分でいうのも口幅ったいが、小学生の頃の私はちょっとした「優等生」であったと思う。子どもながらに先生に気を使って、彼らの気に入られようとか、少なくとも嫌われないように気をつけていた。

今でも思い出すのは、ソフトボールの試合で、みんなが打順をめぐってオレが先だと言い争っているときに、自分は大人しく傍で見てた。そんなことでケンカして先生に叱られてもつまらんと思ったまでである。それを見ていた先生が、「お前らは人に譲るという気持ちがないのか。○○を見て見ろ。自分が先と言わない。エライなあと先生は思う」とみんなの前で褒められた。そこまで褒められるのは意外であったが、「してやったり」とも思ったわけである。

先生から見ると決まりを守る「聞き分けのよい子」だし、授業もちゃんと聞くから、たいして勉強しなくても成績もよい。だから先生には好かれるのだけど、反面、平気で決まりを破れる子が羨ましくて妬ましかったりする。

それに先生のご機嫌取りをしている自分に後ろめたいところもあって、「ぶりっ子してる」なんて言われると痛いところをつかれたような気がして、過剰に反応する。

それでも「優等生」になろうとするのは、先生という「権威」に対する無条件の追従と引き換えに、先生が自分を特別視して守ってくれることを期待していたのだと思う。

でも、「権威」の意向を唯一の倫理基準とする「優等生」は、実は自ら善悪を判断する道徳能力が育まれない人たちでもある。

ニーチェによると、「奴隷」のメンタリティというのは無条件を要求する。自分自身の判断が求められる余地がないような無条件な追従を好むのだ。「君はどう思う」なんて聞かれるより、「あーしろ」、「こーするな」と言われている方が楽なのである。

その代わり、言うことを聞いている以上は、自分たちの福利厚生を「権威」が守ってくれることを当然視している。近代教育の制度としての学校に期待された機能のひとつは、まさにこの「奴隷」メンタリティの扶植なのである。

幸か不幸か、我々の多くは、成長するにつれ「権威」を相対化することを学び、親や先生への盲目的な追従から脱却する。でも、植え付けられた「奴隷」メンタリティは容易には払拭されない。権威は「社会」、「国家」、「国民」、「世論」、「民意」、「常識」、「専門家」、「科学」なんて名前で姿を変えて現れる。

私自身も中学、高校で「反権威」の味をしめるのであるが、この年になっても「社会」とか「民意」とか「法」なんて言葉を聞くと反射的に頭が下がる。

でも、普段から SNS などを観察していると、「優等生」根性から抜けきれないのは私だけじゃないんだな、というホッとするべきなのか嘆くべきなのかよく分からない事実に直面する。自らを欺いてまで「決まり」を守ってきたのに、それに対する十分な代償を得ていないと感じる「優等生」たちの怨念みたいなものを感じることが多い。それが反省能力に長けているはずの高学歴の連中にも増えているのである。

少し古い話になるが、フィリピン人家族の退去問題というのが巷を騒がせたことがあった。不法滞在とは言え、ちゃんと定職をもって、家庭を築き、税金も納めて、模範的に暮らしていた。滞在が許可された期間を越えて日本に居続けたという以外には法を破ってもない。日本で生まれ育った子は、日本以外の国を知らない。それでも滞在身分は不法である。結局、大岡裁きみたいなもの(?)によって、両親は強制退去させられたのが、子どもだけは学校を終えるために滞在が許されたのである。

この措置について賛否両論あったのだが、単純化すると「決まりは決まりだから退去は当然」という形式論と「家族を引き離すのは可哀想」という人情論の対立がある。そして、前者の「決まり」への固執を正当化する議論として、悪しき前例を作ると不法入国を助長するかもしれない、という懸念が強調される。

私自身は、入管法の番人として法務省は最大限の譲歩をしたのかなと思う一方で、しっかり地域に根を下ろして生活している家族を引き裂くことに良心の痛みを感じる。つまりそこに未解決の問題を見る。

滞在許可は犯罪に対する「恩赦」に等しいという理屈はわかるけど、そもそも日本の入管・移民政策の閉鎖性が不法滞在を助長しているのでは、という解釈も可能だ。本来であれば犯罪者にならなくてもよい人たちまで犯罪者にしているとなると、「決まり」自体に問題があるのではという問いも生じる。

不法移民の増加を懸念する人たちの中には、移民対策に苦しむ欧米の例を挙げて厳格な法執行を求める人もいるのだが、その欧米にも移民排斥に反対する議論や運動があることには触れない片手落ちの議論が多い。

そもそも、移民問題というのは、国民国家のあり方と表裏一体のはずだ。平等を掲げながらも「国民」と「非国民」の間に恣意的な線引きをする、もしくは移民に経済的に依存しながら不満のはけ口として差別や排除の対象とする、という矛盾が国民国家にはつきまとう。この問題は、一外国人家族の処遇をめぐる法律論対人情論のレベルを超えて、グローバル化する世界で日本をどのような国にするのかという、きわめて政治的な問いを突きつけているはずである。

つまるところ、異なる視点からいくつもの理屈が成り立つ、簡単には答えが出ない問題(哲学のジャーゴンを使えばアポリア)である。そんなに安易に答えを出してしまったのでは、何のために学問をするのかもわからない。

でも、SNS での意見のかなりの部分は、「決まりは決まりだから守るべき」なんていう「優等生」的な発言が大勢を占める。だから、議論がそれ以上進まない。アポリアの存在を認めずに、出来合いの模範解答の一つ(行政の利益を代弁するという意味での「模範」解答)を恣意的に選んで、それをオウムのように繰り返すところで止まっている人が多い。

その立派な意見にかかわらず、「決まりを破るやつら」を叩くことにより「決まりを守っているぼくら」の忠誠心を示して、お上に「ボクたちはいい子だからしっかり保護してくださいね」と訴える卑屈さが隠しきれてない。

この「オタクの逆襲」ならぬ「優等生の逆襲」は、本件に限らずあちこちに散見される。福祉に頼る人たちに対する攻撃にも同様な傾向が認められるから、必ずしも法を順守させたい人ばかりでもなさそうである。無邪気な真面目さとはいいがたいのである。

(2009年3月19日。アップデートのため多少字句を変えた。)

追記

今の学生たちは「法を破ったらダメ」というところで思考が停止してしまって、「なぜそんな法があるのか」、「そもそも法とは何か」までは考えない人が多い。そういうツイートをどこかの大学の先生がしていて、こんな古い記事を思い出した。

こんなものを引っ張り出した理由はもう一つある。最近自分は「義理人情」という言葉で表される日本人の内面生活に関心がある。現代の優等生諸君もまた「義理」と無縁ではなさそうなことに気づいた。彼らは伝統の継承という意味でもまた優等生なのである。

義理堅い人とは、自分の「一分」をわきまえてそれを守る人のことである。「一分」とは集団の秩序における自分の位置、つまり「分際」である。社会における「役割」であり、また「分け前」でもある。「自分」の「分」も恐らくこれである。

決まりを守って生きるということは、この「一分」を全うしていることであるとぼくらは考えるのである。一分を守っている以上、人には迷惑をかけていない。それで誰かがイヤな思いをしたところで、自分のせいではない。つまり、一分を守ってさえいればあらゆる責任から除外されると考えるのである。誰がどんな理由でそんな決まりを作ったかまでは自分の責任でない。

それだけではない。一分を守っている自分が世の中から認められないことが我慢できない。決まりを破らないだけで尊敬され守られる資格を得ると考える。自分の一分に見合った待遇を保障してもらう権利が生じると考える。

さらに、一分を守らない者を憎む心が強い。恩でも仇でもそれを返せない者は人として劣ると考える。世の中がうまくいかないのは、この一分を守らない者のせいであると考える。法の遵守は市民の美徳であるが、それがほとんど常に弱い人、失敗した人、過ちを犯した人に対する攻撃とも組み合わさっているから、無邪気な市民道徳から発しただけのものではあるまいと思う。

厄介なのは、多くの日本人はこれを権威への服従とは捉えないのである。そうではなく、義理の問題であると考える。外から権威を押しつけられているのではなく、自分の義理を通していると考えがちなのである。今日では「義理」という言葉も使われないから、「それじゃ筋が通らない」とか「それ、なんかおかしくね」という否定形の形で義理の存在を確認しないとならない。

とすると、優等生諸君の恨みを翻訳するとこんな風になる。「自分は義理を欠かないために我を折ってこんなに苦労してる。であるのに、我執のために平気で義理を欠く奴がのうのうと生きている。ああいう奴こそひどい罰を受けるべきなのに、自分よりいい思いをしてやがる」。

義理というのは、「理」のために我執を放棄することを迫るものであるから、義理を通す能力は一種の「理性」であると言える。だから、立派な倫理的行動を促したりする。日本人の美徳の多くはこの義理の倫理から生まれる。言うまでもなく、優等生であること自体が悪いのではない。優等生には真面目な人が多いわけで、真面目はやはり美徳である。しかし、世の常として、よいことにはだいたい悪いことが伴う。弊害があまりにひどくなれば、反省した方がよい。既存の権威との関係を所与のものとしない倫理規準が求められるのである。

「優等生問題」は教育の失敗でもあるから、優等生諸君だけが悪いんでない。しかし、すでに卒業して教師や親や先輩・上司になろうという優等生諸君を放っておいて、新しく入ってくる人ばかりにこの弊害を指摘するだけでは、教育の問題も解決しない。やはり本人たちにも気づいてもらって反省してもらわないわけにはゆくまい。

コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。