見出し画像

家父長たちの追放でぼくらが得たもの(とその代償)

ぼくらは自分たちが自由な個人であると思っている。自分が好きなところに住み、好きな仕事につき、好きな人と結婚したり、もしくはぜんぜん結婚しなかったりと、そういうことはぜんぶ自分たちが自由に決めるのが当然であると思っている。特に結婚相手を選ぶ権利は神聖である。それは恋愛の神聖性と結びついている。恋愛感情のない結婚などは不道徳的であるとさえ思う。

だが、自由な個人になるには、まずイエの制度から解放されなければならなかった。イエを支配する家父長たちを追い出さなくてはならなかった。まだそう遠くない昔の話である。自分の親(今の若い人のじいちゃんばあちゃんの世代)くらいまでは、そういう世界をまだ知っていた人が多い。

先日、橋本英吉という人の「欅の芽立」という短編小説を読んだ。自分の知らない作家であるが、解説(『全集 現代文学の発見 第三巻 革命と転向』學藝書林、2003年)によると、橋本は労働階級出身のプロレタリア作家でナップ(全日本無産者芸術連盟)の書記長などを務めた。検挙後に転向し、戦後も左翼運動に復帰せずに独自の道を進んだ人らしい。

「欅の芽立」は昭和11(1936)年に『文学界』という雑誌に発表された。左翼運動への関与により検挙された主人公が郷里に帰って、イエの家父長たちとぶつかる話である。以前に紹介した和田傳(以下のリンク)とは対照的に、こちらは家父長制のあまり好ましくない側面が浮き彫りにされている。

家父長制のイエ制度が失われることによって、われわれが何を得たのかを知るために面白い素材であるので、ここで紹介してみたい。

主人公要助はある分家の農家の次男。長男が病弱で成人するまで生きないだろうと思われた本家に養子に出された。そこの娘である時江と将来は結婚して家を継ぐ予定であった。ところが長男は死ななかった。そこに検挙があったこともあって、本家の主人は本人に相談もなしに要助を籍から抜いてしまう。要助の生家方でも彼を疎んで、飴屋の伯父のところに送ってしまう。

しかし、その生家の長男である兄が急死し、要助は呼びもどされる。後継ぎになるには嫁を取らなければならない。だが、兄嫁と二人の娘が残されている。要助に嫁をとるにはこの兄嫁と子を追い出さないとならない。この嫁は働き者で、家族や親類から可愛がられていた。

そこで、要助の親類たちは相談して、要助に兄嫁を娶らせようとする。兄嫁も子に家を継がせることしか考えていなようで、それを望んでいるようである。だが、要助には兄嫁のその封建道徳臭が気に入らない。

一方、時江の実家もややこしいことになっている。兄は成人したが農業をやるには病弱すぎる。となると、彼を廃嫡にし、時江に婿を取らせることになる。時江の方も兄を追い出す形になり、しかも自分の望まぬ婿を迎えることになるかもしれない。

要助と時江は特に熱烈に恋しあっているわけではないが、似たような境遇に立たされた者として同情しあう。恋愛の神聖を唱えるところまでは行かないが、家父長たちが自分たちの運命を勝手に左右することには納得がいかない。そんなこともあって、もとのいいなずけのいとこたちのやけぼっくりに火がつく。

それで要助と時江と兄嫁は三角関係のようになる。要助がなかなかうんと言わないので、親類は様子を見ている。若い二人を一緒にしておけば自然にくっつくだろうと考えてる。

抗議する要助に対して、つねに上から目線の本家の主人は言う。

「お前の考えもあるだろう。順序として一応たださねばならんわけだが、ただしたところでどうにもならん。という始末じゃ。おクラさん(兄嫁)に子供二人を連れて後妻に行けとは、人情として云えん。そうかと云って、おクラさんをこの家に置いて、お前に嫁を取れば、結局おクラさんを追い出すのと同じだ。それで、まあ皆さんと相談の上、お前とおクラさんが一緒になれば、あっちもこっちも丸くおさまってこんないい事はないので、とにかくそうして貰うことになった。」

要助が我を折って兄嫁といっしょになれば、八方うまく収まる。兄嫁や子らも路頭に迷わずにすむし、それが家のためだ。死んだ兄さんもそれを望んでいるにちがいない。その理屈を要助は頭では理解している。だが、割り切れない気持ちが残る。イエのもつ強制力に疑問をもっている。

だが待てよ、じゃ夫婦とは何でつながるもんだ。欲と愛が必要か。それとも夫婦になったから、夫婦でいるのか? そんなことはない。犬猫より進化した法則が夫婦にある。その法則は愛なんて立派なもんじゃねえんだ。「家」ちゅうもんずら。「家」を中心にして、その家を保存していくために夫婦が必要だ。亭主も女房も労働の一単位にすぎん。

あるとき、要助は兄嫁の兄から招かれる。その兄は妹思いの誠実な人で、その人から「妹に足りないところがあったら、オレが何でもして補うから、どうか頼む」と頭を下げられると、さすがに要助も心が揺れる。

酔っぱらった要助が帰宅すると、兄嫁一人しかいない。要助はついつい誘惑に負け、兄嫁は要助の子を身ごもる。まさに家父長たちの思惑通りになってしまう。親類は集まって要助に引導を渡そうと迫る。しかし、要助は首を縦に振らない。

和田傳の『家父長』と同様、橋本のこの短編でも、家父長たちは自分たちの私利私欲のために子の権利を侵害しようとしているのではない。家の存続を第一に考えている。しかし、『家父長』の場合と違って、こちらは好き合う者同士の仲を引き裂き、無理にいやな配偶者を押しつける悪人として登場している。

恋愛が神聖なものとなった今日では、これは到底許されざる個人の自由の侵害に思える。結婚は当人同士の自由な精神的な絆の上に築かれないとならないと考えるからである。しかし、家父長たちはそうは考えない。まずは家である。自分たちも家のために私を犠牲にしてきた。であるから、子らにも同じことを要求する。家をないがしろにして個人の心情を優先するのは「わがまま」にすぎない。それが家父長たちの言い分である。

今日では受け入れがたい見解であるが、一歩下がって考えると、要助が兄嫁を娶らないかぎり、兄嫁とその子は行き場がなくなる。人の命、女性の権利、罪のない幼きものの福利厚生がかかっている。要助一人が我慢すれば丸く収まるという家父長たちの言うことには一理ある。要助が自らの自由を貫き通して時江と駆け落ちでもすると、本家も分家も双方とも潰えるのである。要助が迷うのも無理はない。

「俺は何も家を意味なく潰したくないし、それに若し俺が本当に逆らって行くなら、村を逃げ出すのは間違いなんだ。しかし俺には分らん。俺は生臭坊主のお説教や子供のままごとのようなお振舞は見ただけで腹が立つ。がそれは俺の一時の感情なんだ。考えれば、ままごとのお振舞は女達の安直な楽しみで、そいつをなくして何になる。時代がそういうものを奪って行くのが、癪だと思うくらいなんだ。」

要助の迷いを断ち切ろうと、時江の兄俊一はこう応える。

「俺は軽蔑するものと戦って行く。村の伝統とか習慣は美しいものかも知れない。現にそれを保存するどころじゃない。日本全体をその中に封じこめようとする運動さえあるくらいじゃないか。しかし本当にそれ等の美点を、桑をきりながら、水を田にひきながら、俺達の心から沁み出させるためには、今あるものを一度ほろぼさなけりゃいかんのじゃないか。今あるものは本当の美点が沁み出て来るのを、塞いでいるんだ。一度ほろぼしたあとには、子供のままごとより十倍も大仕掛けなお振舞が復活するんだ。俺達は本当のお振舞を邪魔している、ちっぽけなままごとのお振舞をなくしたいんだ。」

この俊一の台詞は予言的でさえある。イエ制度は解体した。だから、今ではこんな難問に遭遇することはなくなった。イエの都合によって養子にされたり廃嫡されたり、好きでもない人との結婚を強要されなくなった。これがぼくらが得たものである。

しかし、イエがなくなったということは、いざというときに帰る故郷を失ったということでもある。そのために、今日多くの人は、困ったときにはイエに代わって国家に助けを求めないとならなくなった。言ってみれば、帰る家を失って潜在的にホームレスとなった人々は、国家に大きなイエの役割を期待するようになった。俊一が予言したように、「子供のままごとより十倍も大仕掛けなお振舞が復活」したとも言える。

しかし、そこで要助たちが遭遇したような難問に再びぼくらは遭遇する。個人が我慢をしさえすれば八方がうまく収まる。そういう場合がたくさんある。国家全体、社会全体のためを考えてわがままを慎め。そうすればみんなの命がすくわれ、子どもたちの福利厚生も保証される。そうして国家も安泰で存続する。そんなかつての家父長たちのようなことをいう人たちも出てきてる。

いや、それは人権侵害である、自由の蹂躙である。ぼくらはそう反発するかもしれない。いや、現にしている。だが、そういうぼくら自身が、人命のため、子どもの福利厚生のためだったら、個人のわがままなどどしどし制限すべきである、と言ったりする。

どうやら、イエ制度を放棄することによって失われたものがある。自由にはそれなりの代償があったのである。その代償をはっきりと覚悟せずにイエを解体してしまったから、家父長を時代遅れなものと批判しながら、ぼくらもときどき家父長たちのようなことを知らずに言っている。そういう矛盾を犯しているようなのである。

家父長制やイエも何らかの問題の解決として考案されたものであり、必ずしも人々を不幸に陥れる邪悪な目的で作られたものではなかった。しかし、要助のような近代的意識に目覚めた者にとっては、それは堪えがたい圧制に思われた。そして要助のような人々の闘争を通じて、世の中は変わった。

今日、われわれはみな要助と時江の子であり孫である。家父長の帰還やイエの復興は反動にしか思えない。しからば、この遺産を継いだわれわれは、ここからどこに向かうべきか。われわれの子らにどのようなものを遺すべきか。

ここから先は

0字

¥ 100

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。