母(もうすぐ90)の発達障害
私はカサンドラ症候群だったんだなぁと思う。相手は旦那ではなく母だけど。
母がそこそこ重度の発達障害なんだろうなと思ったのは結構前だ。その頃はアスペルガー症候群などと呼ばれていた。今は情報も増えたし整理もされて、そういった精神科系の動画解説を見ると、ああ、そうそう、そうなのよねー、などと思っている。
自他の境界が曖昧で、共感力に乏しく、自分の感情には敏感だが他者の感情には鈍感だ。おそらく他のカサンドラの方とかもそうだと思うのだけど、何が一番大変だったかといえば「言葉が通じない」ところだ。日本語母語話者同士で、お互い日本語で会話をしているのに、言葉が通じないのだ。
例えばこんなことがあった。
母から「体がきつい時があるから、車は車庫に入れて欲しい」と要望があった。私は母にこれまでも自分は線維筋痛症で、疲れやすく四六時中体が痛いのだということは伝えてある。我が家の駐車場と母の車庫は20mくらい離れている。通路は細い砂利道だ。「私もきついのでそれは難しい」と答える。実際買い物から帰って荷物を運び入れ、それからまた車に乗り込んで移動させるだけの余力がない。こういった説明もこれまで何度もしているのだけど、なかなか腑に落ちないようなので再度言う。その上で母は言う。「でもお母ちゃんきついんだわね。だから車は車庫に入れてよ。お願いだから」。私は答える。「私もきついんだわね。だからお互い様ってことでよくない?」母は深く俯いてから大きな声で言う。「でも、車庫に置いて欲しいんだわね!」。
無理だって言ってるんだけど、説明の仕方が悪いのか?と昔の私は思っていた。どういった説明の仕方ならわかってもらえるだろうか?そうではないのだ。「わからない」が正解。手段の問題でもなければ、説明の問題でもない。悪意もない。他者を思いやるという、そのへんの脳の回線がないのだ。共感力がないのだ。母にとって私の返答は「断られた」とか「拒否された」という情報しか含まない。私の断る理由は母の共感力の網の目からはこぼれ落ち、大きな粒である「拒否」だけが母に届く。そして拒否された母は傷つくのだ。
不思議だなと思うのは、母は自分は思いやりのある人だと認識しているところだ。共感力がないので他の認識で補っているのだろう。それは一般的にいう思いやりではないが、それを今生のうちに母が理解することはないだろう。
そんなわけで、母がそれでもギリ納得する場合というのが、仕事・怪我・死の可能性だ。手術のない病気程度では納得しない。目に見える外傷、あるいは生命の危機を感じるくらいで、やっと認識できるのだ。それは子供を失うという恐怖がそうさせる。
母が私の体をある程度深刻だと認識したのは、「あまりに痛くて二回くらいいっそ死のっかなって思ったことあるわ。そこまで痛いのも一過性だってわかってるからやり過ごすけど。」と言った後だ。それまで8年ほど、どんな説明も届かなかった。
このへんの私のストレスが線維筋痛症に繋がったのはいうまでもない。
そもそもあんたのせいなんですけど、と言ったところで母には通じない。
手のない人に手を使えというのは理不尽だ。母にわかってもらうというのも同じくらい理不尽なのだ。ないものとして、認識すればよい。
「車庫に入れて欲しい」と言われても「無理です」「嫌です」と答える。それで母は傷つくが、それはもうそういうものなのでよしだ。泣こうが喚こうがしょうがない。母はわかってもらえないと文句を言うかもしれないし、母の兄弟から不服申し立てがあるかもしれない。そんなこんなを全部わかった上でこう答える。
「私も発達障害で人の気持ちわからないのよ。ごめんね。」
そりゃそうだって話だ。
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