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私のもう一つの大学、MAKERS UNIVERSITY に出会うまでの4年間とこれから

2020年11月8日
この日は、MAKERS UNIVERSITYのDEMODAY。
私たち5期生にとっては一つの大きな節目のイベント。

この文章は、MAKERS UNIVERSITYという、私のもう一つの大学に対して「卒業論文」として提出します。(運営の皆さん、メンターさん、みんなに届け・・・!)
同時に、この文章は私の未来への覚悟であり、あわよくば11月19日 22時に締め切りの6期生へ応募する人へ届くものになりますよう。
https://makers-u.jp/app-guidelines

はじめに


はじめまして。小林ひかりです。山形で看護学生をしています。今は、HSPという感覚処理感受性の高い人が健やかに過ごせるブランドを準備しています。MAKERS UNIVERSITY5期生として、2020年をめいいっぱい支えていただきました。

これから書くのは、
私がMAKERS UNIVERSITYに出会う「4年間」と、今年「2020年のもがき」を凝縮したものです。ここで大真面目に言いたいのは、私はMAKERS UNIVERSITYに入るまでの18歳から22歳の4年間の出来事が全て繋がっているように感じています。全て詰め込めるように、心を込めて書きます。

もし、このnoteが誰かの心に刺さった際には、ぜひ6期生への応募を検討してほしいな、もしくは小林のファン・隠れファンになってほしいな、もしくはいつか一緒に面白いプロジェクトをさせてください!!!!!

そんなことを伝えたいです。誰かの心に届きますように。



18歳で出会った一言への衝撃

「看護師も、アーティストも、どっちもやっちゃえばいいじゃない。二足の草鞋って言葉があるじゃない。何をそんなに悩んでいるの?」

3年前、セブ島にある英語教室の一室で、タンクトップの髪をかき上げた女性は、私の目を真っ直ぐ見てこう言ったんだ。
「どちらかじゃなく、どちらも???そんな選択があるの???」

あの頃の私は考えたこともなかった。
当時、医療とアートどちらかを仕事にしていきたい!と思っていた私にとって、第3の選択肢が現れた瞬間だった。
あの時の衝撃は、4年たった今も忘れられない。

18歳、大学一年生の5月、衝動的に「このままじゃダメだ、外に出たい!」と、フィリピンに飛び出した事があった。
あの頃の私は、全ての行動が乱暴で、突拍子のないことばかり考えては行動に変換する恐ろしい時期。
三ヶ月後、私はフィリピンにいた。
現地の英語学校に通い、全世界から来た留学生たちと話した時、彼らの持つ考え・選択・夢が輝いていて、実際に行動に移していることが魅力的だった。
冒頭で衝撃の一言をくれた女性も、フィリピンで仕事をするという「選択と行動」をした人の一人だった。
私の価値観が変わり続け、生き急ぐスピードも上がりまくった一ヶ月。多分、そこから私の人生は大きく狂い始めた。

何かに追われるように、自己表現と問題提起を繰り返した19歳


帰国後の私は、とにかく足を動かすようになった。
理由はシンプル。フィリピンで感じたあの衝撃を忘れないように、またいつかあの人達にあったら、胸を張れるように。
学生団体でイベントの運営を行ったり、デザインを学んでひたすらポスターやフライヤーを作ったり、ブログで文章を書いてみたり、絵を描くことを再開したりした。
もういろんなことに手をつけては、これは楽しい、これは楽しくないの物差しで測っていたと思う。
見える世界がどんどん広がっては、興味も増え、人の関わりが増え、自分が何を突き詰めたらいいのかわからなかった。頭の中が情報過多で、どうにか整理しようと必死になっていたんだった。そして、ある日「医療とアート」を組み合わせた分野、ホスピタルアートに出会い、「これが私のやりたかったことだ」と確信したんだった。



一大決心をした20歳


ホスピタルアートに出会ってから、みるみるその世界に惹かれていった。
無機質な病院にアートを施し、人の心を癒すホスピタルアート。
幼い頃から信じてきた「アートには人の心を救う力がある」という信念が重なり、もっと深くホスピタルアートを学びたいと思うようになった。
そしてついに思ってしまった。

「これは、医療系の大学じゃ学べない。だから、休学をしてホスピタルアートを学びに行こう」
無暴すぎる旅に出た。

出会い、挫折、もがき、選択をした21歳


山形から横浜に出たのは、2019年4月1日。
住む場所も、働く場所も、関わる人々も、何もかも違う、ゼロからの生活が始まった。起業家の元で経験を積みたい、生活費を稼ぎたいという思いでベンチャー企業でインターンをさせていただく日々。

毎日のように働いて、人に出会って、目まぐるしい日々を過ごしていた。しんどい時には、先輩方や友人に支えていただいて、人の愛を知った時間でもあった。この頃の自分は、「病院にアートを取り入れる仕組みを作りたい」と思い、起業を
意識し始め、アートと医療を繋ぐ「あとめでぃ」という団体を立ち上げていた。
さらに、ホスピタルアートのある病院にも視察に行ったり、アシスタントをさせていだたく機会もあったりと、休学の目的も少しずつ達成していった。
2019年、秋の私は、いい面を摘めば「いい休学だった」と言えてしまうし、もやもやした面を摘めば「結局、思いを事業にすることはできずに復学するんだ」という二つの感情が残った。圧倒的に後者の方が強かった。
そんな時に出会ったのがMAKERS UNIVERSITYだった。
正確には、思い出したんだった。
友人との会話でよく出てくるコミュニティとの名前。認知していたけど、ああなんか凄い人たちがいそう…と思っていて、詳細までは知らなかった。



DEMODAYの気迫、突き動かされた何か


昨年、MAKERS UNIVERSITYのDEMODAYは、永田町で行われた。
同世代の起業家がものすごい熱と気迫でピッチとプレゼンを行っており、この会場だけ別世界に思えた。そんな時の記憶を当時ブログに書いていたので、こっそりリンクを載せさせてください。
とにかく、彼らを見ていて触発されたのだ。
「次、私も応募しよう。」
そう呟いて、猛スピードで応募書類を書き始め、締め切り5分前に提出した。




MAKERS5期生へ、5日間の合宿


選考を経て、五期生に採用していだだくことになった。
メールが来たときは呼吸が止まって、3秒後くらいに喜びが湧いてきた覚えがある。
その後、MAKERSのみんなが一堂に会する、2月の合宿に参加した。
たしか、合宿の前日に病院の壁画塗りをしていたため、オールかつ、髪の毛や服にペンキがついたまま会場に向かっていたんだった。


最初に全員がピッチをするのだが、
当時は、正直「ん???みんな凄すぎないか??私ってなんでここにいるんだろう」とリアルに思った。
みんなのビジョンがもう眩しかったからだ。
と同時に「こんな熱い人たちと過ごす八ヶ月ってどんな時間なんだろう!」とワクワクも尽きなかった。

初回、5日間の合宿は、
己の痛みに向き合い続けるワークや、自分のビジョンを深めるワークがあり、毎日頭が飽和してた。
ある時は、オリセン近くのカレー屋さんや唐揚げ屋さんに行ってご飯を食べたり。ある時は、チームで事業を作ったり。ある時は、お風呂でお互いの夢を語ったり。ある時はお部屋に集まって話をした。
改めて考えると、これらのことが合宿の5日以内に起こっていたと思うと、濃すぎて恐ろしい。この5日間は、多分、人生のトップ10に入るほどに記憶に残る素晴らしい日々でした。
あの日、みんなと何を話したのか、覚えてるや。私が作業してた時にバナナくれたのも覚えてるよ、誰がくれたんだっけかな、ありがとうだ誰か😂
その後、2回目、3回目の合宿は、インドに行っていたこともあり参加できない寂しさもあった。しかし、「アートの可能性をこの目で見る」という目的で行ったインドで、仲間とショートムービーや壁画を作るという、こちらも人生のトップ10に入る記憶が作られました。その時のインドの記憶のブログ

この時は、「またすぐみんなに会えるだろう」「次はあの子とお話ししよう」なんて呑気に考えていたんだ。
まさか、11月現在まで、みんなに会えなくなるとは思わなかったな。


世界の大変化と、白紙になった事業


インドから帰国してからしばらく、新型コロナウイルス により殺伐とした空気があった。復学が2週間後に迫っていた私は、最後に会いたい人たちに会い、風のように山形に帰ったのだ。
感染状況はさらに悪化し、全国に感染が拡大。
医療の圧迫は進み、あとめでぃで進めていた「ホスピタルアート事業」は白紙になった。世間が落ち着かない中で、病院に介入する勇気も持てないまま、ホスピタルアートができない日々と、大きな無力感のある日々が続いた。

これは、どうやらわたしだけの状況ではなかった。
海外が絡む事業をしている子はまず渡航ができないし、飲食関連の子も施設を使うのはリスクがある、まさに「スタート地点に戻る」という感覚を覚え、わたしはこれからどうしようってことばかり考えてた。
こんな時期でも支えてくれたのは、メイカーズ の友人達。ゼミのメンバーをはじめ、不定期でzoomをする友人からパワーをもらったんだ。

ふと考える。「あの時期、もし一人だったらどうなっていたんだろう」
きっと即メンタルやられていたと思う。
みんながいたから頑張れる、メンターがいたから頑張れる。
綺麗ごとだ〜って思ってた言葉の意味を、しっかりと実感しました。

心のホッカイロ、内野さんのメール


わたし達の心を強くしたものの一つ、内野さんのメールだと思う。(多分、ここでウンウンしているメイカーズ 生18人くらいはいるだろうな)
内野さんとは、メイカーズ の運営の代表の方である。
2月の合宿から今まで、内野さんのメールにはとても支えられてきた。
内野さんのメールは、定型感が全くなく、温度で言うと37.5度 あたりなのである。言葉が生きていて、あったかいのである。
また挫けそうになったらメールボックスを漁って何度でも読む。
ちなみに運営の皆さんからくるメール、メッセンジャーもれなくあったかくて大好き…大感謝…。


ギバーなみんな。私はペイフォワードを誓う。


常々感じていることを吐露させてください。
メイカーズ のみんな、圧倒的にギバーすぎる問題。
悩んでいる時はひたすら話を聞いてくれたり、事業に詰まったらノウハウを教えてくれたりする。この記事、この子に役立ちそうだな…!って思ったら送ってくれたりする。優しい。
みんなにもらった恩は、わたしも誰かに送るんだ、そう心に決めている。
メイカーズ でよく言われているのは「ペイフォワード」であること。受けた相手に返すのではなく、『次へ渡す』という意味。

感謝を事業の価値でお返しできたら本望だ。


焚き火でマシュマロを焼くような、荻原ゼミ


もう一つ、わたしにとってのホッカイロ。
それはメイカーズ のメンターである荻原国啓さんのゼミである。
荻原さんのゼミは、なんというか不思議なのである。
事業が進まず苦しい時、頭が飽和している時、「こんな状態でゼミに行っていいのだろうか…」と思ってしまうこともあった。
でも、ゼミは一度も休んだことがない。
みんなも、用事が入った以外は、ほぼ皆勤賞である。
私たちゼミ生は口を揃えて「うまくいかない時こそ、行きたくなるゼミ」という。

ゼミでは、みんな素になる。
チェックインの際に荻原さんから「今日の調子は10点中どれくらいですか?☺️」と質問に、1点とも、10点とも答える日があるし、事業相談というより人生相談をすることもある。
毎月やってくるこの暖かい時間、私たちゼミ生は「焚き火でマシュマロ焼いているようなゼミだよね」と例えた。
もし、2020年荻ゼミがなかったら、本当にしんどかったと思う。心が折れていたと思う。そんな時期を共に過ごしてくれたゼミメンバー、荻原さんに心から感謝です。ありがとうございました。


私のこれから


まず、ここまで読んでくださりありがとうございます。まるで私の日記のような内容になってしまいましたが、メイカーズ がどのようなコミュニティなのか、少しでも伝わればなと思います。
わたしはというと、今はhspという感覚処理感受性の高い人に向けた癒しブランドの準備に励んでいます。人の気質であるhspはとても曖昧な分野で、切り口を見つけるのは非常に難しいと感じています。さらに、計画してたクラウドファンディングも延期したり、ヒアリングを分析し直したりと、決して順調とは言えない経過です。
しかし、このメイカーズ の期間で「見えづらい落とし穴を埋めたい、落とし穴に落ちても這い上がれる社会にしたい」という軸に気づけたのは本当に大きい。

そこに向かう過程すらも、もう、楽しんでいきたいなと思います。


6期生を考えている方へ


最後に、このページを見てくれた人は、
何かを作ったり、変えたりすることにワクワクしたり、
強烈な原体験に駆られて必死に進んでいたり、
まだはっきりはしていないけど社会に違和感があったり、
いろんな方々いるのではないかな?と思います。

どんなスタートだとしても、何かを作る、変える、進める、思考する過程はワクワクと葛藤があると思うし、これからも自己否定や承認を幾度となく行なっていくと思うんです。昨日の正解も不正解になってしまう今日だから、自分を信じ続けることも難しいよね。
そんな変化に溢れた社会で、人との関わりも最低限を強いられる今で
「毎日を生きている」に加えて「事業を作る、進める」ことをしている・しようとしているのは、本当に本当にすごいことだと思うんです。
究極のバランスを保っている気がするんです。

そんな人に、メイカーズ という場所があるってことを知ってほしいなと思います。

待ってます。

締め切りは明日19日22時。

拙い文章を読んでくださり、ありがとうございました!!!!

いつもサポートしてくださり、ありがとうございます。書く、を続けていける1つの理由です。