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#9 こんなことがあった(カラーひよこ)

かつては学校前の屋台、あるいはお祭りの屋台などで、カラーひよこ釣り(もしくは色付けされていないひよこ釣り)があった。動物愛護法の制定(1973年)によってひよこ(にわとり)も愛護動物に含まれたことで、飼育に関する説明を行わなければならなくなったことがひとつの要因となって、今ではほとんど見ることができなくなっている。

そういう子どもの頃はあったのに今はないものについてあれは何だったのだろうかと考えることがある。

福岡の小学校に通っていた頃、1970年代後半には、小学校の門のところに不定期に屋台がひとつ、多くてふたつ出ており、ファンシー文具、駄菓子、そしてカラーひよこが売られていた。ひよこは割りばしに糸をつけた簡易の釣り竿みたいなものの先にうどんかそれに類似したものを付けて釣り上げるひよこ釣りだった。今でいえば金魚やメダカ掬いみたいな感じで、ひよこ釣り、カメ釣り(カメはカメ掬いだったかもしれない)があった。

学校から出たところにある屋台を見て、家に急いで帰って親に臨時お小遣いをねだるか、あるいは運よくお小遣いをもらって戻ってきた同級生と店の人のやりとりを見て楽しんでいたような記憶がある。

それ以外にも、ポン菓子の製造機をひいたおじいさんが通学エリアの住宅地にやってきて、そういう時は家からお米を袋に入れてもっていってポン菓子にしてもらったような記憶がある。その際にお金はどの程度必要だったのかはわからない。「ポンッ」という破裂音と米の甘い匂いがなんだかとても楽しかった。なお、いくら半世紀以上を生きているとはいえ、紙芝居屋さんはさすがに体験していない。

学校が家庭や地域との連携の必要性を強調しつつも、昭和時代に子どもと学校をとりまいていた、子どもを相手とする商売が学校環境から排除されていった過程を知りたいと思って、朝日新聞などのバックナンバーを調べたことがある。

1980年ぐらいだと、運動会に屋台(露天商)が来ていたこともあるらしい。地域の運動会というお祭り気分を盛り上げる上で屋台は今でもあって欲しいが、いつ頃から、「家庭で(主に母親だ)お弁当を作ってもらって家族で一緒に運動会の昼食を楽しむ」ことが強く奨励されるようになったのだろう。運動会の屋台、私が校長だったら大歓迎すると思うが、教育委員会などから禁止の指示が出たのだろうか。あるいはコンビニの普及によって駄菓子屋さんが数少なくなったような、あたらしい商業形態と順応しなかったのだろうか。

子どもをどんどん学校に取り込んでいって、学校で十分に対応できないことは家庭に転嫁してくるような、子ども、学校、家庭だけから構成される息苦しさみたいなものは、少子化がどんどん進む平成、令和と強くなっているのではないかと思うこともある。大阪池田小学校児童襲撃事件を契機とする教職員の防犯訓練なども行われているので、学校に関係ない人は学校と児童の安全のために排除しなければならないという要請と、地域の見守りと、そしてどこから来たのかわからない露天商のような人たちの存在は、いっしょくたにすることは難しいのだろう。

話をカラーひよこに戻そう。

福岡の時は、社宅住まいだったので、カラーひよこを釣って帰ってきても育てることができないでしょ、という理由でカラーひよこは眺めているだけだったが、大阪南部に家を買って引っ越した頃(1980年前後)、お祭りの屋台で弟とカラーひよこを釣って帰ったことがある。

カラーひよこは蛍光色のピンクやグリーンに色付けされていて、その色付け方法がよろしくないのかすぐに死んでしまうと言われていた。ただ、自分たちが連れ帰ったひよこはタフで生き残り、可愛らしいひよこの時代はすぐに終わって、けたたましく鳴く雄鶏へと成長した。

なかなか気が強くて、それより前に飼っていた飼い犬を庭で追いかけ回すぐらいだった。しかも本当にけたたましく鳴くので、とうとう近所から苦情が届いたらしく、母は困ったらしい。

それからほどないある日、帰宅するとにわとりは居なくなっていた。
母曰く、農家に引きとってもらったということだが、本当のところはわからないままである。