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#26 こんなことがあった(父の出迎え)

ある程度私が手伝い要員としてカウントされるようになった頃なので、おそらくは小学校高学年の頃からだと思う。

そこそこ大都市圏勤務+ベッドタウンに自宅持ちのサラリーマンにとって、片道1~2時間の通勤時間はそれほど珍しいことではない。

父は朝7時頃の電車に乗って仕事に行き、帰りは接待その他で午前様になることが多かったが、野球のナイター中継がある日はそれに合わせてそこそこ早めに帰ることもあった。そういう早めに帰宅する日の父の出迎えはいつの間にか私の役割となっていた。

乗り換えた最後の電車に乗った頃、もしくは快速で最寄り駅の1、2駅前から父が電話かけてくると、母は最寄り駅まで車で迎えに行く。それまでに最低限「お通し」的なもの、つまりは食事よりも先に出されるべきお酒(ビール)のつまみになるものは準備されていなければならない。

酒飲み特有の、ご飯は後、その前に「お通し」的なものも含めた何皿かとビール(アサヒスーパードライが出てからはそれ一択になったがあれは会社の付き合い的なものを意識してのものだろう)を楽しむタイプなので、何よりも酒とつまみがなければならない。九州人なので辛子レンコンや明太子、さつま揚げなどがあれば理想的だが、無ければ浅漬けやかまぼこ、ししゃもなどをとにかく何皿か準備しておく必要がある。会食が多かったので食事にうるさくなっていたし、好き嫌いがある人だったので何皿か分の食事の準備は大変だったと思う。

つぎにお風呂の準備だ。父は帰宅したらまずはさっぱりしたいということでお風呂に入るし、お湯は自分の体でお湯があふれる程度になみなみと多め、かつ、熱めのお湯を好んだ。そのため、母が車を出した段階でお風呂の状態をチェックする。また、追い炊きを行う際は底がぬるくなりがちなので、何度かお湯をかき混ぜて全体的に良い感じのお湯になっているようにしなければならない。父が満足するお風呂の状態になっていないと不機嫌になるし、仕事などでもともと不機嫌の時はそこで癇癪を起すこともあるので、お風呂の準備は大事だ。

お風呂からあがった時の着替えも準備する。脱衣場のかごに着替えを置くが、着古した下着だとこれもまた不機嫌になることがあるので、タンスから下着を取り出す時には大丈夫かどうかチェックする必要があるし、洗濯物をしまう際に母が気付いていない時もあったので、買い替えた方が良さそうな時は早めに母に告げておく必要があった。

次にビールの準備。母からは飲みすぎないように注意することが求められていたので、冷蔵庫にあるだけ飲んでしまうかもしれないので必要な分を少なすぎず多すぎずの状態で冷やしておく必要がある。だいたいは3本程度。5本を超えると母から私が叱られる。ビールを水のように飲まれてはたまったものではないことは理解できていたが、かといって「ビール持ってこい」と言われた時に、「もう今日は飲みすぎだからダメ」と飲み屋で働く人のように返すことができるまでには一定の年月が必要だった。ただ、これって小学・中学生の子どもが気にしなければならなかったことなのだろうか。

父がお風呂に入っている間に完成できるようにお酒セットの準備をして、新聞もまた見たいと言うかもしれないので食卓の近くに、座った時にゴミや片付けが不十分な状態が目に入ると不機嫌になるのでそういうものが無いかも一通りチェックする。

そうこうしているうちに家の駐車場に車が帰ってきた音がする。父は車庫入れを行う母より先に車のドアを開けて降り、門を開け、ドアを開けるので、出迎える。鞄や時期によってはコートを受取る、場合によっては父がおつまみとして食べたいもの=手土産を渡されてその調理に関して簡単な指示を受ける。特に機嫌が悪くなければ自室で背広を脱いでから風呂場に行く。

そのあたりで母が家に入ってくるので、母の指示に従ってお酒セットを完成させ、風呂場から出てきた父のもとに持っていく。その後は父の側に侍りつつ、私は全く関心のない野球中継を一緒に眺めながら父の一方通行な会話に適宜応じたり、母に呼ばれて食事を父に運んだり、といったことを30分~1時間程度行い、母と交代する。

父の明日の背広のズボンをズボンプレッサーにセッティングして朝はスイッチを押せばいいだけにしておく、そして父の靴を磨いてから自室に戻る。

脱線になる。このズボンプレッサーはビジネスホテルだと置かれて自由にお使い下さいという感じで部屋やフロアに置かれていることが時々あるが、それが何か知らない人と大学院時代に居た。彼女の母親は教員、父親は定年退職後に弁理士になったと聞いたことがあるので会社勤めだったような気がするが、そういうのを使わない家庭もあることが妙に新鮮だった。もっとも半世紀も生きていると人それぞれ、家庭もそれぞれだということはわかる。

大学・大学院時代は、私にとっては自分の家庭において良くも悪くも染み込んでいた自分の家庭だけのルールや基準みたいなものを、親から離れて過ごすことを通じて自分自身で見聞きしたり試行錯誤した結果を踏まえて修正する期間で、親の「当たり前」が多くの人にとって「当たり前」ではないこと、そして、親の「当たり前」に自分を合わせる必要がないことを認識していく途中だった。だからこそ、先輩がズボンプロセッサーを知らなかったこと、自分の父親の出勤準備を娘が手伝うことが必ずしも一般的とは言えないことを知り、新鮮な驚きとともに強く印象に残ったのだと思う。

父の出迎えは、その日の仕事やスポーツの勝敗(特に野球)によって父の機嫌が左右されるため、緊張を伴うものだった。そのため、車のドアを閉める音や玄関のドアを開けた時の評定で父の機嫌を把握し、特に機嫌が悪い時には癇癪を起さないようにいつも以上に注意を払う必要があった。親子関係というよりも一種の主従関係みたいなものではなかったと今になっては思う。

勿論、上で書いたように午前様の時は私が起きて待っているようなことまではしなかったが、時にお酒が入り過ぎた父が「親が仕事から帰ってきているのに寝ているとはえらそうに何だ」と言う感じで起こして、それを注意した母と口論になってしまうこともあった。ただし、多分、私が中1から中2にあがる時(要は3月)に父の単身赴任生活が始まったので、それより後は数か月に一度父が大阪に帰ってくる時ぐらいしかこういった出迎えに伴う作業をすることは無かった。父が単身赴任することないままだったとしたら、もしかしたら私の中学以降の勉学に悪影響を及ぼしていたかもしれない。

なお、私には2歳下の弟がいるが、弟はこの手の対応に駆り出されることはなく、むしろ「邪魔だから部屋にいて」「邪魔しないで」と早々に母から戦力外通達を受けて部屋にいたような気がする。それでいて、「あんたは父親といろいろ話す機会があっからいいじゃない。あんたの弟はそういう機会がなかった。あんたがそれを奪った。」というようなことを母は後年私に何度も言うようになるのだが、そもそも「男子厨房に入らず」といった感じの育児をしたのは母だし、割とマイペースなので父を苛立たせることがあったのは弟本人の問題だし、そもそも父の出迎えの「手伝い」を私がすることで、多少父が不機嫌だったとしても私がクッション役になることで、その分は少しでも母の負担を減らせるので手伝っていた私の何が悪かったのだろうかといろいろ思うのであった。

前に書いたように父と性格の方向性は似ているので父の感情の波は母よりも察知できた父親っ子であったことは事実だけれども、それは一種の生存戦略ではなかったのかと自分のことながら思うことがある。