見出し画像

CrimeInfo世界人権デー企画 映画『死刑 - Guilty - 』オンライン上映の感想(ネタバレあり)

CrimeInfoは、刑事司法における人権問題、その中でも特に死刑に関する情報提供を行っているNPOだ。

本日(12月17日)は、世界人権宣言が採択された12月10日の世界人権デーに関連する企画として 映画『死刑 - Guilty - 』オンライン上映があった。

この映画はインドネシアにおいて麻薬密輸の罪で死刑が執行されたオーストラリア人たち(「バリ・ナイン」)の中の1人であるマイラン・スクマランの最後の3日間を取り上げた作品で、映画を作成したオーストラリアでは何度も上映されているがインドネシアでは未上映、オンラインではあるが日本での上映は今回初であり、字幕はCrimeInfoによるものとのことである。

CrimeInfoのオンラインイベントを視聴したのはこれで3回目だと思う。映画上映の前に行われた趣旨説明では、「受刑者とアート」に関して現在クラウドファンディング実施中の「刑務所アート展」の紹介の後、世界人権デーに関して「アートも人権も国境を越える、死刑問題も同様である」として今回の映画に関する説明があった。

死刑存置国である日本ではあるが、死刑相当犯罪は故意に人の命を奪ったものに限定されており、薬物犯罪に対する死刑は考えられない。他方において、治安問題として薬物犯罪を重視する国(インドネシアを含む35か国)では薬物犯罪は対象犯罪である。それに関連して、「薬物犯罪と死刑」について日本では3点の関わりがある。第1点が日本人が国外で薬物犯罪に巻き込まれた場合である。実際にマレーシアにおいて薬物犯罪で死刑判決を受けた日本人女性がいる。なお、マレーシアでは2023年4月に特定の重大犯罪に死刑のみを適用する強制死刑制度を撤廃したことを受けて当該女性は再審請求中である。薬物犯罪は自ら犯罪に加担する者もいる反面、知らない間に運び屋に仕立て上げられたケースや冤罪のケースもあるため、日本国内において薬物犯罪に対して死刑が規定されていないから関係ないと言うことはできない。第2点は政府レベルの話になる。つまり日本政府が薬物犯罪に対する死刑を規定している国を援助することを通じて間接的に薬物犯罪に対する死刑を支援している問題である。その一例が2012年~2019年にイランに対する数百万円の支援先のひとつが薬物対策であったことが挙げられた。つまり、薬物犯罪に対して死刑を科す国に薬物対策関連の支援を行うことを通じて日本政府はその国の死刑を支援してしまっているという問題がある。したがって、死刑問題を考える上では国内だけではなく国外の問題についても関心を持ち続ける必要がある。第3点は死刑と安全保障の問題で、オーストラリア政府は今回の映画で取り上げた自国民への死刑執行の後、世界的な死刑廃止の呼びかけを行うようになり、死刑問題が主権国家であるそれぞれの国の中で留まる問題とはなっていないことがある。

さて、映画の主人公であるマイラン・スクマランはオーストラリア国籍であり、オーストラリアは死刑廃止国である。彼らの麻薬密輸に関する情報はオーストラリア連邦警察が情報提供を行っており、死刑廃止国が自国民が他国で死刑執行されるリスクをしりつつインドネシアに情報を提供した(自国民である彼らがオーストラリアに帰国するのを待って逮捕するのではなく、薬物犯罪に死刑を科す国での逮捕を支援した)ことも問題として認識する必要がある。

自国民への死刑執行についてはオーストリアのアボット元首相がインドネシア政府に死刑を執行しないよう要請したものの、①これまで死刑制度に関する批判をしたことがない(自国民への死刑執行が現実化した段階でようやく死刑制度に関する批判をしている)、②今回の死刑執行対象者は全て深刻な薬物犯罪者でその中で当該オーストラリア人だけを除外するわけにはいかないという理由で死刑は執行され、それに対する非難としてオーストラリアはインドネシア大使を一時帰国させた。

以下は映画の進行にともなう感想である。

映画は過去と現在を行き来する。現在のパートは主人公の母の映像が流れ、母親が電車に乗ってどこかへ向かっている様子が描かれる。他方、過去のパートは死刑執行に至るまでの流れを描いている。

マイラン・スクマランは首謀者とされるアンドリュー・チャンとともに麻薬密輸の罪で2005年4月17日に死刑(「マティ」)判決を受けた。その後10年に及ぶ刑務所生活の中で、彼は絵を描くことを覚え、創作活動を始める。途中でファインアートの大学の授業を受けたという発言があったが、死刑囚の教育を受ける権利は保障されていたと理解するべきだろうか。画風としてはベン・キルティ(Ben Quilty)を模範にしているらしい。そして、彼は創作活動を行うとともに刑務所で絵画教室も開催するようになった。「絵を描くことは生きる意味、自分が何者であるかを考えること」だと彼は言う。

インドネシアでは死刑は銃殺刑である。死刑執行はジャワ州のヌサカンバンガン島で行われ、その島まで装甲車2台で対象者は運ばれる。死刑執行当時、アンドリュー・チャンは31歳、マイラン・スクマランは33歳。犯罪当時は未成年者である。彼らの死刑執行に関する反応は様々であり、家族への同情を示すもの、麻薬密輸は死刑の国で敢えて麻薬密輸を行ったことへの非難、10年の刑務所生活で罪は十分償ったのではというもの、死刑執行と人種に関連して彼らが白人だったらクリスマス迄に帰れたのにというものなどが紹介される。それと同時に兄の逮捕のニュースを知った妹たち家族の衝撃や、そもそも今回の麻薬の密輸(ヘロイン10キロをオーストラリアに密輸しようとした9名)について、事前に情報を持っていたオールトラリア連邦警察が彼らの帰国を待って逮捕しなかったこと=薬物犯罪に対する死刑が規定されているインドネシアで逮捕させ、有罪なら死刑でも構わないと判断したことへの非難なども取り上げられている。

その後もマイラン・スクマランの弁護士たちは上告を行うも、それらはすべて棄却され、死刑は確定する。このあたりの法廷シーンとともに銃殺刑が進行しているシーンも描かれている。

死刑囚として収監された2人だが、インドネシア政府は彼らに対する死刑執行の意思はそれほど強いものではなかったらしいが、麻薬犯罪には厳しく対処することを主張したジョコ氏が大統領に選ばれたことで死刑執行が進行する。ここで興味深かったのは死刑囚に刑の執行書への署名を求めていた。テーブルについていた制服の人々の所属が最初はよくわからなかったが、どうも検察庁らしい。

マイラン・スクマランは、「死刑執行書に署名してください」と言われた際に、書かれていることは事実。しかし署名することはできませんと主張する。犯罪を行ったのは事実だが、そこから自分は変わった。6年間刑務所で絵画教室を行うなど、自分が変わったことも書類に追記しない限りは署名しないと主張した。主張は受け入れ追記が行われた執行書に彼は署名をし、72時間後の死刑執行カウントダウンが始まった。日本において死刑執行書に署名を求められることはないと思うし、仮に署名を求められるような場において死刑囚が彼と同様の主張を行うことも、主張を反映させることもまずないなと思った。ただ、死刑が確定しても人は変わるという映画の主張は理解できた。

インドネシアの死刑=銃殺刑執行に際して、死刑囚は白いシャツに着替え、3分程度の宗教家との最後のやりとりの後に目隠しをされ、処刑に対して立つもしくは座ることを選択できる。その後、医師が心臓部分にマークを施し、10メートル先から銃殺を行う。執行に際しては銃弾が込められているのは3丁でそれ以外は空砲にすることで執行者に対するストレスを軽減するこころみがなされているらしい。

死刑執行までの72時間カウントダウンの様子が描かれる。実際にもそうなのかどうかはわからないが、拘置所職員や検察庁職員の半数程度は女性であることが印象に残った。女性といえば死刑執行停止を求めるオーストラリアのビショップ外相もそれにNOと答えるインドネシア側も女性だった。また、「バリ・ナイン」でまとめられているのか、拘置所も個室とはいえ同じ建物に男女が混在している感じだった。

マイラン・スクマランは残された独房での時間を肖像画をはじめとする絵を描くことに集中する。食事を持ってきた刑務官とのやりとりで「囚人の持ち物は全て捨てられる」ことを知った彼は、弁護士に絵を持って帰ってくれるように、捨てられてしまわないように対応してもらいたいと依頼する。ここで、死刑囚が多分弁護士だとは思われるものの外部の人に電話をかけることができること、そして電話の内容を刑務官が聞かないようにしていること(「タバコ代」と言って何かを渡しているので、賄賂の一種なのかもしれない)、そういった点で日本とは比べられないほど外部交通が緩やかな印象を受けた。規定の時間以外に刑務所の仲間たちにサインをもらうために2分間独房から出してくれというちょっと無茶な要求もかなえられているのは、刑務所での彼の行いが良くて刑務官と信頼関係が築かれていたためかもしれないが、そういうところも規律が柔軟な印象を受けた。これは主張をしっかりできる彼だからなのか、彼らが母国オーストラリアからも注目されていた外国人だったからなのか、そのあたりはわからない。とにかくマイラン・スクマランにとって「絵は自分の存在の証」なのだ。

そういった絵画をめぐるやりとりに挿入されるのが着々と進む死刑執行の準備のシーンだ。処刑現場に持っていく十字架が作られ、処刑される人の名前がひとつひとつ丁寧に書かれていく。非人道的なもののために準備されるものが丁寧に作業されていることのアンバランスさが印象的に描かれていたと思う。刑務官たちも規律を守るために存在しており職務を忠実に行いながらも人としては優しい感じの人を登場させることで、死刑の非人道さが際立たされていたと思う。

最後の24時間、つまりは処刑の日には家族が別れを告げにやってくる。いつ処刑されるかを知った上での最後の別れを家族に告げることは本人にとっても家族にとってもつらいことだろうが、それでも直接家族へ別れを告げることができる点は現在の日本とは大きく異なる。

オーストラリアからインドネシアまで、家族たちは何度往復したのだろうか。マイラン・スクマランの弁護士たちが上手く交渉したのだろう、おそらくヌサカンバンガン島対岸のチラチョップの港にはスクマランの家族と弁護士が彼の絵を掲げて死刑中止を求める抗議を行っていた。

家族との別れの場は刑事施設の中庭で、スクマランは父母妹弟の家族4人と最後の面会を行っていた。中庭というオープンスペースで行われていること、またスクマラン以外の囚人たちも同じ中庭で家族たちと面会ができており、しかも奇妙なまでに牧歌的なシーンになっていることもなおさら死刑執行による家族の別れを引き立てている。家族たちの写真を撮っているシーンもあり、職員は門の前に立ち彼らを見守っているという図はその後死刑執行が行われるということさえなければ極めて平和的なシーンであった。

同日に死刑執行が行われるアンドリュー・チャンの兄、マイケル・チャンの刑事施設の中庭に家族が揃っているのに別れなければならない辛さを語っていたがまさにその通りだと思う。スクマランの弟は「母と妹から兄を奪わないで」と訴え、妹も大統領に死刑中止の慈悲をお示しくださいと訴える。sかし、死刑執行数時間前(23時)に9人中女性1名だけが死刑を免除されたほかは死刑執行は進行し、マイラン・スクマランは宗教家の面接の後、死刑執行が行われるヌサカンバンガン島へ装甲車で移送される。彼の担当をしていた職員が告げたのは「Selamat Jalan」だったのだろうか。

処刑地であるヌサカンバンガン島に到着してからの描写は淡々としている。先に説明されていたように、白い服に着替え、それぞれの囚人の心臓部分に医師が×の印をつける。号令通りの発砲で死に至らしめることができなかった場合は近距離から再度こめかみをねらって発砲するとはいえ、速やかに死を迎えさせるためには的がどこであるかはっきりさせた方が良いのだろうが、国の刑罰権の行使として確実に殺さなければならないという死刑について奇妙な感覚を与えるシーンであった。その後9名から直前で死刑を免れた1名を除く8名は処刑場所まで移動するが、それぞれの場所へとひとりひとり減っていくシーンも差し迫る死の孤独感みたいなものを感じさせるものだった。

マイラン・スクマランは、自身が処刑される場所で十字架(十字架だと思ったが、処刑されたのはキリスト教徒だけではないので、別の表現をする木の台だったのかもしれない)の横木に腕を縛られ、処刑の準備が整ったところで再度宗教家による励ましの言葉を授けられる。映画では目隠しはされていない。宗教家は処刑対象者それぞれに用意されており、ムスリムの人も見えた。死刑囚を見守る彼らがテントの下の椅子に着席すると、いよいよ死刑執行となる。インドネシアの島の真夜中なので、生き物の声が聞こえる中でスクマランが深呼吸をし、劇中歌として流れるアメイジング・グレースを彼も歌いながら、処刑が執行される。少し後は絶命した彼等の遺体を回収する遠景が映る。

そこで場面はここに至るまでに何度か挿入されている現在のマイラン・スクマランの母が電車にのって出かけるシーンに変わる。母親が向かったのはマイラン・スクマランの絵画展会場。絵という創作手段を得た彼が死刑執行間近まで描き続けた肖像画などを見る人たちで会場はにぎわっており、母親も彼の絵について来場者と語りあっている。犯罪を行ったこと自体は事実として、それは否定できないものの、それでも死刑は間違っていて、その「死刑は間違っているということを(自分の絵を見て)気付いてくれたらそれでいい(I'm happy)」という彼の言葉が語られる。母親は会場の奥へと進み、息子のビデオにたどり着いて、そしてそのビデオの中で息子がほほ笑み、一転して死刑執行により絶たれた彼らの氏名と誕生・死亡日が流れ出すラストだった。

さて、死刑だ。薬物犯罪も多くの人の人生を狂わせるという点において許しがたい犯罪ではあるが、「故意に人を殺した場合に死刑」(の可能性がある)といった日本の死刑状況の思い込みがあって、薬物犯罪で死刑が執行されるということ自体にまずは驚いた。またその手法が銃殺であることも。これが殺人事件であれば自らの中途半端な正義感みたいなものが影響して自ら死刑相当の犯罪を行い、被害者を作り出しながら、死刑囚もその家族も何を甘えているのかと思ってしまう可能性もあるが、そのような殺人事件に対する死刑であっても、加害者側でも被害者側でもない者が当事者を差し置いて死刑の正当性を声高に言うことは何だか違う気がする。死刑が苦痛を最大限除去する方法でエレガントに行われたとしてもやはり国家による殺人である死刑執行は「仕方がない」で済ませてはならない気がする。そして、少なくとも日本を含めて、死刑を維持する国が世界に存在する限り、その死刑とはどのようなものであるのかは、死刑存廃のいずれの立場に立つにせよ知らなければならないのだろうと思った。「知らなかった」「仕方がない」として逃げることは、あえて無関心であり続けることもまた罪だと思った。

CrimeInfoさんにおかれましては、日本初のオンライン上映を企画して下さりどうもありがとうございました。