これでも侵略か 「敗戦と東京裁判史観からの脱却」

これでも侵略か、第12回は、敗戦と東京裁判史観からの脱却です。令和3年の今年は、日本の開戦からちょうど80年の年です。テレビヤ新聞は、もう戦争はこりごり、平和こそが大切だという論調で報道されていました。なぜ戦争になったのかや、そこから何を学んだのかは明らかにされませんでした。
NHKは真珠湾攻撃に参加したもと航空母艦、加賀の101歳の整備兵のかたを取材し、「どうしていまだに世界が平和になっていないのか疑問に思う。戦争を防ぐためには、相手のことを思いやって対話していくことが、何よりも大切だ」と話していましたと報道しました。でも戦争は対話、つまり外交で避けようとしても避けられないから戦争になってしまうわけです。当時日本も英米との戦争を避けようとして必死でした。
 戦略家、クラウゼヴイッツも戦争論で、戦争は外交の延長と言っています。当時日本は、日中戦争で国力を消耗しているときに、英米から経済制裁を受け始めたのです。制裁だけでなく、陰で日本と戦っている蒋介石政府を支援していたのです。この時日本は、石油をアメリカから輸入して、中国の蒋介石国民党軍と戦っていたわけです。アメリカからみれば日本を生かすも殺すも石油次第でした。
唯一アメリカに誤算があったとすれば、たとえ日米間で戦争になっても米国の損害は少なく、まさか3年8か月も戦いが続くとは思ってもいなかったでしょう。敵側であったマッカーサー自身が、昭和26年、1951年5月3日、米国上院軍事外交合同委員会で、日本が戦争をした理由は、大部分が自衛のためだったと証言しています。東条英機もと首相も、東京裁判の宣誓供述書で、大東亜戦争は自衛のための戦争だったと証言しています。
 敵も味方も両方の戦争指導者が、日本は安全保障上、戦争になったと認めているのです。しかし、日米の歴史教育や一般常識では、日本は侵略をしたから英米から経済制裁を受け、日本は英米に戦争をしかけた。しかも宣戦布告前の卑怯なだまし討ちを真珠湾にしたということになっています。昭和20年、1945年7月26日に、米英チュウの3カ国の名前で、日本に対する降伏条件を示したポツダム宣言が発表されました。
 昭和20年8月6日、広島に人類史上初めて原子爆弾、ウラン型が投下され、一瞬で市は壊滅的な被害を受けました。9日には、別のより威力のあるプルトニウム型の原子爆弾が長崎市に投下され、2種類の原爆による市民の死者は、21万にん以上となりました。これは明らかに、当時の戦時国際法法規に照らして、不必要に一般市民を殺害した、憎むべき、人道に反した米国の戦争犯罪でした。
同年8月14日に、ポツダム宣言を受諾し、同9月2日に戦艦ミズーリ号上で、わが国は、降伏文書に調印しました。8月15日ではなく、9月2日が国際的には日本降伏の日とされています。
 GHQの占領時代を経て、わが国は、サンフランシスコ講和条約を米国など48カ国と結び、独立、主権を回復しましたが、同時に対米請求権も放棄させられました。この間の6年8か月が、連合国軍最高司令官、マッカーサーによる日本の占領統治です。その最大目的は、よく言われることですが、日本が二度とアメリカの脅威にならないように、我が国の伝統文化から国家体制まで作り変えることでした。

昭和21年、1946年5月3日から、昭和23年11月12日まで、2年6か月間開かれた、極東国際軍事裁判について、もと上智大学名誉教授の渡辺昇一先生は、公正な裁判には不可欠な2つの条件が欠けていたとおっしゃっておられます。一つは裁く根拠となる法律がなければならない。裁判官は、公平でなければならない、この2つがかけていたのです。
また先生は、あれが裁判の名に値するものであったと認める国際法学者は、今一人もいないといわれているにもかかわらず、日本人の多くはそれを知らないともおっしゃっています。東京裁判史観とは、このおよそ裁判の名に値しない、連合国の報復裁判によってつくられた歴史観をいい、この歴史観にもとづいて、戦後日本のすべてが組み立てられてきたといってもよいでしょう。

 東京裁判史観ということばを、はじめて使われたのは、東京大学名誉教授の小堀けいいちろう先生といわれています。平和に対する罪と人道に対する罪は、ポツダム宣言が発せられたときにはなかった、明らかに事後法でした。後からつくった法律でひとを裁くことができないのは、近代法の大原則です。これだけで、東京裁判は、法律を無視した、裁判とはいえない裁判だったということができるでしょう。

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