ジェンダー論基礎ゼミ01:トランスジェンダーとスポーツ
『トランスジェンダー入門』
トランスジェンダーとは?
生まれたときに割り当てられた性別集団の一員として、自分自身を安定的に理解できなかった人たち。
心の性と身体の性が一致しない人、という定義はとても不正確である。(トランスジェンダーでない人を含んだ)多くの人に当てはまってしまう。
ジェンダーアイデンティティ:自分がどの性別に属していると認識しているか。単なる「思い」とは区別されるもの。
トランスジェンダーに対して、かつて男性だった/女性だった人と認識するのは、その人が幼い頃から一貫して持っていたジェンダーアイデンティティを否定することに繋がりうる。
ノンバイナリーとトランス
ノンバイナリーは「生まれたときに割り当てられた性別集団の一員として、自分自身を安定的に理解できなかった人たち」としてのトランスには含まれるが、ノンバイナリーの人の中には、いくつかの理由から自分をトランスジェンダーであるとは認識しない人もいる。
ノンバイナリーとしての体験が"越境"に必ずしもそぐわない
トランスとしての差別を経験しない場合がある
生き延びた結果としてのトランスジェンダー
偶然性によって割り当てられた性とは別の性を引き受けて生きている人もトランスジェンダーに包括されうる。
割り当てられた性で生きることができなかったために性別を移行し、結果としてその移行先に落ち着いていく人は、移行先のジェンダーアイデンティティを保持しているとは必ずしも言えない。(同様に、シスジェンダーの人の中にも、ジェンダーアイデンティティが明確ではないが、割り当てられた性をなんとなく引き受けた人もいる。)
アンブレラタームとしてのトランスジェンダー
現代的な定義においてはトランスではないが、トランスの人と同じような差別を受けてきた人が団結するための用語としての"トランスジェンダー"が存在する。
「心の性と身体の性が一致しない人」という定義は何を見逃してきたか?
身体の性は生物学的な特徴、客観的なもの、と捉えられる一方で、心の性は内面的な特徴、主観的で操作できるもの、という印象を持たれる。
身体の性
身体の性を知るために使われる身体的特徴は多岐にわたり、「身体の性」の捉えられ方は漠然としている。(ため、当人の実態にそぐうとは限らない。)一方で、トランス的文脈で想起されがちな医学的な外性器の形や染色体は、現実生活ではあまり利用されない。
身体の性という言葉は変更不可能な印象を与えるが、実際にはトランスの人は現実生活で利用されるような「身体の性」の多くの構成要素を改変している。
身体の性は戸籍の性と同一視されがちであるが、現代の日本では戸籍の性は変更されうる。
心の性
ジェンダーアイデンティティは社会の中で生きていく過程で確立していく安定的なものであるのに、心のせいという言葉は自分一人の認識によって決定する一時的な自己主張だという印象を持たれる。
性別の割り当てはどのような意味を持つか?
割り当てられた性別として生きるように要求されることと、割り当てられた性別らしく生きるように要求されることを区別する必要がある。トランスジェンダーは前者をクリアできなかった人たち、多くの"フェミニズム"は前者をクリアした上で後者をクリアできなかった人たち
『性の境界とスポーツ』
男性中心、男性ホモソーシャル中心なスポーツでは、トランスジェンダーやDSD者は参加に特に高いハードルを課せられてきた。
スポーツとジェンダーは近代の価値観を共有しながら発達してきた。
性別の"判定"の歴史
男性的な見た目の女性選手は疑いの目を向けられてきたため、外性器 → 染色体の確認が行われるようになった。しかし、染色体の検査では女性選手を偽ろうとした男性が発見されることはなく、むしろ自分がDSDであることを突然告知される女性選手を多く生み出したため、染色体の検査は中止された。
女性としての基準
テストステロン規定:女性選手のテストステロン値が男性の平均値の下限を下回ることを要求する。
?トランス男性に対して男性の平均と同等程度の男性ホルモン補充が認められないのはどうしてか?
スポーツにおける身体の公平性
身体のサイズ、障害の有無、年齢による区分は多くの競技で導入されている一方で、バレーやバスケで身長での区分がなされることはないし、身長が高くなるという身体特性は高アンドロゲン症の女性のように批判されることがない。
純粋なセックスは存在せず、ジェンダーから(むしろ逆方向に)規定されうる
社会の性規範とスポーツにおけるジェンダー
社会では出生時の性別とジェンダーを必ずしも紐付けない流れが生まれている一方で、スポーツでは社会のジェンダー観とは一致しない区別が行われている。しかし、スポーツが社会の様々な場面で浸透している現状、排除の理屈は正当化されうるのか?
議論 - グループ
スポーツの男女カテゴリ
トップレベルでないスポーツ(中高の体育など)で必ずしも男女で分ける必要はあるのか?性別による身体能力の差は重なりの大きい分布なのでは
能力でグループを分けることについて、能力で評価されるのはスポーツが嫌いにならないか
能力でのグループ分けは欲しい、女子側から見る男子のバレーは威力などが少し怖かった(その分類は性別である必要はない)
体育は能力の向上を主たる目的としていないなら(男女や)能力で分ける必要はないのでは
トランス/DSD者が意図的にそういう身体に生まれたわけではない
スポーツで男女分けをしようとして困ることは確率的にそんなにないから基準として使われてしまう(身長とかだと連続的に分布するが)
性別が自明に明確に二分できるものだと思われている
人種、身長etc.は保護されないのに、女性はなぜ"保護"されるのか?性別というカテゴリに優劣を見出しているからでは?
社会的に考えられる男女差とテストステロン値でカットオフされる男女差はどれぐらい一致するのか
どの数値を基準にしても基準近辺の人は存在するから分けるのは難しくないか?
ジェンダーアイデンティティ
ジェンダーアイデンティティを「単なる思い」と区別することは可能なのか? → 確かに境界は明確でないが、その程度の差は区別されるべき程度に達していると思う。
トランスジェンダーの身体の性が法的に判定される機会はあるのか? →身分証の性別と見た目の性別が異なることはさまざまな障壁になる。
全体議論
社会によってトランスの割合が異なる
トランスジェンダーの人がトランスとして受け入れられることは当事者の精神的安定につながる
トランスの人がスポーツへの参加機会を奪われることは問題である
性別でスポーツを分けることが自明になりすぎてその区分を揺るがそうとするものに関しては拒否反応が出てしまう
産業的スポーツにおいて、見る人の心情を理解する必要がある。性別で分けることで性別以外の個性に目を向けてもらうことができる
うまい女子選手が本当に女性なのか疑われるのはうまいから。
ドーピングに厳しいスポーツ界がDSD者やトランス女性に対して逆ドーピングを指示することの矛盾
平均を比較すると飛び抜けた個性は評価できないのに、どうしてオリンピックで平均を語るのか
参考文献
周司あきら・高井ゆと里「トランスジェンダーとは?」『トランスジェンダー入門』集英社、2023 年、13-39 頁
岡田桂「性の境界とスポーツ」岡田桂・山口理恵子・稲葉佳奈子『スポーツとLGBTQ+』晃洋書房、 2022 年、86-106 頁
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