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「程度問題」について思うこと

セクハラ(あるいは当てはまるものと当てはまらないものの境界が明確になり得ない概念)について人々が話している時にわたしが感じる違和感について書こうと思う。

程度問題という言葉がある。たとえばADHDは不注意だって言うけど、忘れ物や見落としなんて多かれ少なかれ誰にも起こることだ、とか。あるいはセクハラも、同じ行為をされても喜ぶ人も嫌がる人もいるとか。こうして、程度問題が矮小化の文脈に落とし込まれることに、わたしは違和感を持っている。

ここで扱いたいのは、当てはまるものと当てはまらないものの境界が明確になり得ない概念だ。そういった概念は、同一カテゴリに属していながら程度が甚だしいために分節するに値するものとして名前を付けられている、程度依存の概念である。

しかしそういった概念に対しては、しばしば(意図的にであれ無意識的にであれ)定義があやふやだというネガキャンを目的とした境界探究的な問題提起が行われる。「何してもセクハラって言われちゃう」「みんな自分はADHDだって言い出す」「トランスジェンダーは自分のほんとうの性は体と違うって言うらしいけど、俺だって女になってみたいと思ったことぐらいあるよ」のような、ありふれた言説のことだ。

こういった問題提起に対するわたしの答えとしては、境界が明確でないからと言って必ずしも区別される必要がないとは限らないということになる。確かにADHDの人の忘れ物もADHDでない人の忘れ物も同じ忘れ物だし、ADHD/ADHDでないの境界は曖昧だけれど、でも月に複数回は赤信号をうっかり渡りそうになる人と出会って、わたしは「これは年に1回ぐらい傘を電車に置き忘れてしまう人とは全然違うな」と思った。ADHDとそうでない人、あるいはセクハラとそうでない行為、あるいはジェンダーアイデンティティと、何の実質も伴わない一時的な自己主張である「単なる思い」の程度の差は、どれも区別されるべき程度に達していると思うのだ。

境界探究的な問題提起が程度依存の概念の存在意義へのカウンターになりうるという考え方に、わたしは反対する。その違いを程度問題として矮小化して回収するのは、単に現実を反映できていない。 

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