踊りが生まれるところ

今日の定期クラスで参加者のみなさんが踊っているのを見てやっぱり踊りはそこに生まれるもので、可動域が広いとか高く飛べるとか早く動けるとかでははかれないなとあらためて実感した。もちろん可動域が広いとか高く飛べるとか早く動けることも素晴らしい。けどだから踊りになるわけじゃない。ダンステクニックがないと踊りにならない、というのとダンステクニックは踊りの邪魔だ、というのはあまり意味のある比較ではなくてダンステクニックがあって踊りになることもあるしならないこともある。ダンステクニックがなくても踊りになることもあるしならないこともある。じゃあどういう風に踊りが生まれるのか、それが論点。ここでいうダンステクニックというのは体系のこと。多くの人に共有されたテクニックというものは体系化する過程で形骸化が起こりやすいのかとも思う。その中にある生きたものではなく外から見え、はかれるものに気を取られてはまさに形骸化だ。もちろん多くの人に共有されている体系のテクニックが悪いなんてことは当然ない。体系はシステムで形や動きの順番が先ではなくそれが現れる素の秩序が先にある。その秩序が生む必然が形や動き、その順番を決める。その秩序のあらわれ方はただ一つの正解があるわけでなく生まれた環境や時代、地域、文化によって違ったりする。学ぶときにいきなり秩序を押さえることはできないかもしれない。学ぶ中でそこに蓄積されてきた経験、体験、時間は豊かな智慧に触れなければ体系に触れることにはならない。それを自分のカラダから紐解くことができるのか。時間を止めたものではなく自分のカラダを通して生きたものになっているのか。体系を伝えるとき、学ぶときにその形、型以外を無いもの、見えないもの、ダメなもの、単純な悪と思い込んだ動きはやせ細ったものになってしまう。その動きの形や通り道の外にある無限の形や動きの中の一つとして、外のものに支えられて生まれているものである。それは思い込みや観念的なものではなくて単純に具体的でことでただそうであるとしか言えない。これまで生きてきたたくさんの人々の様々な動きの経験、自分が生きてきた中での動きの経験に支えられたものが今の自分のカラダを通して今ここにこの動きにあらわれている、生きられている、存在している、そんなものに踊りは宿る。それはいわゆるダンス的な形や動きをしていないことがある。繰り返しになるけれど今日のクラスのみなさんの動きを見てそんなことを思ったのでした。

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