2月、3月の総括

この文章は、某所で記録していた2月・3月分の日記を編集、再構成したものです。

2月のある日、教室にパソコンの充電ケーブルを忘れ、深夜ひとり大学まで取りに行った。この街は深夜になると人をめっきり見かけなくなる。月並みな表現だが、世界に自分ひとりになった気分になる。この感情は、世界全てが自分のものになったような征服感か、あるいは自分だけが世界に取り残された孤独感か。充電ケーブルを取って帰路につく。街は2月の寒さを引きずってまだ大分寒いままだった。景色はずいぶん霧深かった。

春霞を見ると春の到来を感じる。酷いときは一個先の交差点の信号すら霞がかってよく見えない。ぼやけた信号は淡い光を湛えていつもより綺麗に見える。輪郭のぼやけたコンビニはそのまま空気中へ溶けて消えてしまいそうだ。全てが確固とした輪郭を失っている世界には独特の趣がある。冬の寒さは無くならないが、この景色を見ると今が確かに春なのだということを実感できる。

***

2月が終わって少し経ったら夜でも暖かい日が多くなってきて、春の到来を感じる。とくにここ数日は初夏のような空気すらあり、明確に季節の変わり目を実感している。私は季節の中では冬が一番好きだ。でも、冬が終わり、次第に夏に向かっていくことを実感するこの時期の空気も存外嫌いでは無い。

最近、久しぶりに実家に帰った。この日は特に暑く、春を飛び越してまるで初夏のような気候であった。このような気候は久しぶりだ。
実家は都道に面している。この大通りは車の往来が多く、いつも排気ガスの匂いが少しだけ混じっている。一人暮らしでこちらに越してきてから、ようやく地元の匂いに気がついた。沸き立つアスファルトに排気ガスの少し混じったこの匂いが、まさしく懐かしい地元の香りであった。中高生時代の通学路を思い出し、懐かしい気分になる。そうか、今年も夏がやってくるのか。そんなことを思った。

マンガやアニメで描かれる夏の日々は、長い冬を経験した後の自分にとっては随分フィクショナルなもののように感じられる。一年ごとに必ず夏はやってくる、これは当たり前の事実だ。ここに異論を挟む余地は無い。それでも今の私にとってそれがどこか信じられない出来事の様に感じるのは長い冬のせいだろうか、あるいはその幻想のせいか。
瀬戸内海をフェリーで渡っていたあの日は季節で言えば冬に近かったが、瀬戸内の島々は随分暖かく、私の中の「夏」という幻想への渇望を満たしていった。このような日々が決して幻想の中の産物ではないことは、私にとってそれなりに確かな救いとなっていた。つくばという寒い街でそれなりに長い冬を過ごすと、その後に夏が来ることを忘れがちになる。夏なんてアニメの中だけの存在だと。だからこそ、春が来たときに新鮮な驚きがある。夏と冬を入れ替えても然り。その時私ははじめて世界が季節と共に回っていると実感するのである。

これら全ては夏への期待であり、憧憬である。それは例えばアスファルト上の陽炎、妙に美味しく感じるスポーツドリンク、矢鱈に青を湛えた海。私がこれらに季節を感じるのは、まさにこれらの風景が二十余の「夏」を過ごす中で人生に深く刻まれた「夏のパターン」であるからに違いない。各々が持つ季節のパターンが、各々の人生を形作り、各々の一年に花を添えてゆく。そんな美しいパターンを、今年も期待している。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?