見出し画像

中二病でも三幕構成がしたい! ~アニメ版「中二病でも恋がしたい!」から見る三幕構成~

この記事はmast Advent Calendar 2023の5日目の記事です。
4日目は 𝙎𝙇𝙄𝙈𝘼𝙇𝙄𝙕𝙀𝘿✦ さんの記事『嘘の木、嘘の文、真の永遠』でした。

寒くなってきましたね。こんにちは、定積です。この記事ではアニメ版「中二病でも恋がしたい!」を題材に、その物語構成を分析してみたいと思います。


「中二病でも恋がしたい!」ってどんなアニメ?

「中二病でも恋がしたい!」のサムネイル(dアニメストアより引用)

皆さんは「中二病でも恋がしたい!」を見たことがありますか? 2012年のアニメですし、再放送も何回かされていたので、もしかしたらテレビでリアタイ視聴していたという人もいるかもしれません。制作は安定したクオリティで有名な京都アニメーション。よく動く美麗作画は一見の価値ありです。ストーリーはこんな感じ。

残念だが告白しよう。俺こと、富樫勇太は中学の時――中二病だった。だが、そんな黒歴史も中学と共に卒業して、順風満帆な高校ライフを満喫中というわけだ。このまま黒歴史も忘れていけるはず…。そう、はずだったんだ。しかし、事件は起きてしまった。いや、起こるべくして起きたというべきか…。そして、その事件をきっかけに現在進行形で中二病感染者の小鳥遊六花と強制的に契約を結ばれてしまった!俺の日常はぶち壊し――って六花!これ以上、俺の中二病心を刺激するのはやめてくれ!中二病を軸として、コミカルかつ切なく描く青春学園ラブコメディ!ここに爆誕!!第1回京都アニメーション大賞<奨励賞>受賞作のアニメ化!

dアニメストア 『中二病でも恋がしたい!』あらすじより

上記のあらすじからも分かるようにこの作品のストーリーは典型的なボーイミーツガールと言えます。「平穏な日々を望む主人公がどこか非凡なヒロインに目をつけられ、非凡な出来事に巻き込まれる」という物語の展開は「ハルヒ」や「とらドラ!」の時代から続くお約束のパターンであり、今までに数多くのヒット作品を生み出してきた王道パターンでもあります。
また、今でこそ異世界転生モノに取って代わられていますが、00年代後半から10年代前半は学園ラブコメの黄金期であり、深夜には学園を舞台とした「謎部活モノ」「謎委員会モノ」のアニメが大量に乱立していました。「中二病でも恋がしたい!」もその例に漏れず高校を舞台とした学園ラブコメであり、そういう観点から見ると本作は非常に王道と言えるでしょう。

そんな本作ですが、最近このアニメを見返していたら、この物語がアニメ全体を通して非常に綺麗な物語構造をしていることに気付きました。具体的には、この作品はハリウッド脚本術の根幹とも言える「三幕構成」を非常に綺麗に踏襲しているのです。ライトノベル版とアニメ版では設定やストーリー展開が大きく異なるらしいのですが、私は原作未読のため、ここからはアニメ版第1期「中二病でも恋がしたい!」のみに絞って話を進めていきたいと思います。

まず三幕構成って何?

「脚本を書くというのはファッションと似ています。服の構造はみんな同じです。シャツには袖が2本あり、ボタンがある。でも構造は同じでもどのシャツも違う。」

『感情』から書く脚本術 心を奪って釘づけにする物語の書き方」 より引用

古来より、沢山の人が「面白い物語を作るためにはどうしたら良いか」について考えてきました。例えば古代ギリシャ時代には既にアリストテレスが「詩学」において「物語に共通する構造」についてまとめていますし、遠く日本においても「起承転結」や「序破急」のように漢詩や能楽から派生した言葉が物語構成の枠組みとして長く親しまれてきました。そんな中で、現代の脚本術において凡そ国際標準となっている物語の構成方法が三幕構成です。

シド・フィールド(Wikipediaより引用)

三幕構成は現在のハリウッド脚本術の根幹を成すものであり、この理論を再発見、体系化したのが「ゴッドファーザー」「アメリカン・グラフィティ」などで知られる脚本家のシド・フィールドです。彼の著作『映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと シド・フィールドの脚本術』(原題:Screenplay: The Foundations of Screenwriting)は1979年に初版が刊行されて以来、世界で100万部以上を売り上げている、まさにハリウッド式脚本の教科書とでも言うべき存在。現在においても脚本術や物語構成の本は沢山出版されていますが、それらのベースとなっている本です。

さて、それでは早速三幕構成の構造について説明していこうと思います。
三幕構成は一般に、「観客を引き込む第1幕」「観客を期待させる第2幕」「観客を満足させる第3幕」から成ります。要は序盤、中盤、終盤ですね。それぞれの幕には違った目的があり、それらの目的は幕が終わるまでに達成される必要があります。(当たり前じゃん!と思うかもしれないが、各幕でするべきことをキチンと出来ている脚本は意外に少ないらしい)

フィルムアート社「きちんと学びたい人のための小説の書き方講座」より引用

観客を引き込む第1幕

第1幕は「物語の発端」を描きます。
この幕の目的は主に物語のベースとなる基本設定の説明であり、物語全体で必要になる各種設定や世界観、キャラクターの説明はここで行われる必要があります。長さの目安はおおよそ物語全体の1/4が適切と言われており、12話完結のアニメなら大体最初の3話、90分の映画なら大体最初の20分くらいがこの章にあたります。(つまり脚本家はこの間におおまかな世界観やキャラクターについて理解させ、この物語に入り込む準備をさせる必要がある)

劇的な出会いは第1幕で(魔法少女まどか☆マギカより)

この幕で説明されていない未知の力や新しい登場人物によって劇中の問題が解決されるということは基本的にあってはならず、そういった物語はデウス・エクス・マキナと呼ばれて批判の対象になることが多いです。後出しジャンケン、ダメ、ゼッタイ。

また、この幕では最後までにセントラルクエスチョンが提示される必要があります。セントラルクエスチョンとは「この物語におけるゴール」を提示するものであり、物語を進行させる上での大きな指針となるものです。

「東大に入る」とかいうメチャクチャ分かりやすい目標(ラブひな より)

物語は基本的にこのセントラルクエスチョンを解決するために主人公が奮闘するという形で進んでいきます。セントラルクエスチョンは物語の進行具合を測る尺度物語に意味を与える文脈そのものであるため、一般的に起承転結がないと言われるような日常系アニメであっても物語全体を通して何らかのセントラルクエスチョンが置かれていることが多いです。

ちなみに、ここで観客を引き込めないアニメは3話切りの憂き目に遭います。

観客を期待させる第2幕

第2幕は「物語における葛藤・対立」を描きます。
この幕の目的は、先ほどの第1幕で提示されたセントラルクエスチョンを解決するために主人公たちが努力し、成長していく姿を示すことです。長さの目安はおおよそ物語全体の1/2が適切と言われています。12話完結のアニメであればおおよそ4~9話くらいですね。この幕が物語全体を通して一番長く、ある意味一番おいしい部分と言えるかもしれません。

第2幕の中では、おもに主人公たちに降りかかる様々な出来事が描かれます。主人公達はこの幕で起こる様々な出来事に対処し、その過程で成長していくことで、最終的にセントラルクエスチョンに対峙するための基盤を獲得していきます。

さまざまな出会いと別れがあるよね(ワンピース 第44巻より)

ここで大事なのは、第2幕で起こる全ての出来事はセントラルクエスチョンと関係しなければならないということです。全ての出来事はストーリーの文脈の中で発生してこそ面白いのであり、これが守られていないと物語全体が支離滅裂なものになってしまいます。
そのため、第2幕で起こる様々な出来事は、主人公が自信を得て成長する基盤になったり、何かに気付くキッカケになったり、挫折から何かを得る材料になったり…という形で主人公に関係していく必要があります。

経験を得て強くなったりする必要がある(食戟のソーマ より)

この幕は物語全体の50%を占める長い幕なので、ともすれば中盤で展開がダレがちです。そのため、物語中盤にミッドポイントを設定する必要があります。ミッドポイントとは、例えば「登場人物たちが何か大きな気付きを得る」とか「登場人物たちの関係性が大きく変化する」といったような、物語の流れを根本的に変えるような大きな出来事のことです。「起承転結のからに変わる境目」と言った方が分かりやすいかもしれません。

「君の名は。」のミッドポイント、瀧が三葉に会いに行って色々なことを知るシーン
(映画「君の名は。」より)

ミッドポイントでは主人公達の内面に何らかの重要な変化がもたらされ、それに伴ってセントラルクエスチョンに対するアプローチも自然と変化していきます。その結果として、物語がたった一つの回避不能な結末へと突き進んでいくのです。

ちなみに、ここで主人公達の成長をきちんと描けないと「楽しかったけど見た後に何も残らなかったな」「2年後には忘れられてそう」といった感想文が制作者に届くことになります。なろう系みたいなのは特にこの事故が多発しがち

観客を満足させる第3幕

第3幕は「物語の結末」を描きます。
この幕の目的は第1幕で提示したセントラルクエスチョンを回収することであり、主人公が最終的に成功するのか失敗するのかを描写することです。
長さの目安はおおよそ物語全体の1/4。12話完結のアニメであればおおよそクライマックスの10話から12話にあたります。
第3幕で必要となることは、第2幕を通じて主人公たちがどのように成長したのかを示す「変化の証明」であり、そのために第3幕の最初では主人公たちが本当に成長したのかどうかを測る「最後の試練」が与えられます。
主人公たちがストーリー内で身につけたあらゆる力を持ってその試練に挑み、その結果に基づいたエンディングを迎えることによって物語は終了します。

希望の船のラスト、利根川との名勝負(賭博黙示録カイジ より)

必ずしも最後の試練に成功する必要はないです。成功すればハッピーエンド、失敗すればバッドエンド。ここで重要なのはそれよりもその結末を以て観客を満足させることの一点のみです。つまり、過不足のない結末によって主人公たちのストーリーが綺麗に完結しており、物語の中にある世界が本当に意味を為していると感じられるようにすること。これが第3幕でやるべきことです。

ちなみに、第3幕の内容が不足していると「残尿感」「尻切れトンボ」「不完全燃焼」などと呼ばれ、第3幕で語りすぎると「蛇足」と言われます。厳しいセカイ。

本題に入る前に

さてと、ここまで長々と説明したことでやっとアニメ中二恋の話に入れる……と思ったのですが、まだちょっとだけ補足しておくべき事項があります。それは「物語は一つのプロットのみにて生くるにあらず」ということです。物語は通常(ショートショートや四コマ漫画でなければ)複数のキャラクターが登場し、それぞれに目的をもって行動します。キャラクターはそれぞれに違う悩みを抱え、物語の中でそれを解消する道筋を探すのです。

それぞれのキャラにはそれぞれの目標がある(ワンピース 第12巻 より)

例として、よくあるタイプの勇者冒険物語を考えてみましょう。
よくあるタイプの勇者モノでは、まず第1幕で世界が魔王によって苦しめられ、それを打倒すべく勇者が旅に出ます。そして第2幕で様々な敵を倒して成長し、第3幕で魔王を倒して世界を救い物語が終了します。この場合のセントラルクエスチョンは非常に明快で「魔王を倒して世界を救う」ことになります。
でも、勇者モノって本当に「これだけ」でしょうか?

もちろん、勇者モノは「魔王を倒して世界を救う」ストーリーです。しかし、これはメインプロット…すなわち物語の一番大きな推進力でしかありません。メインプロットでは基本的に「問題が起きたので解決する」といったように具体的な事件そのものを取り扱うため、そこに読者が感情移入する隙は少ないです。
そこで、様々なキャラクターが抱える様々なサブプロットが登場します。

メインプロットの「魔王を倒す」とは対照的に、サブプロットでは
「勇者は冒険を経て『勇者』たり得る器の人物に成長できるのか?」
「勇者は偉大な師匠を超えられるか?」
「勇者はヒロインと結ばれるのか?」
「ヒロインは過去のトラウマを克服できるか?」

などの、現実の私達も抱えるようなリアルな悩みの解決がメインになります。

サブプロットはもちろん、その解決がメインプロットに何らかの影響をもたらすものでなければなりません。先ほどの例で言えば、サブプロットを解決することが最終的に主人公が魔王を倒す手立てになります。物語が「目的→行動→結果」の構成を見せるものである以上、サブプロットの解決が最終的にメインプロットの解決に役立たなければどれだけ魅力的なサブプロットも無意味です。このことだけはくれぐれも留意しておく必要があります。

アニメ中二恋の話をしよう

さて、この記事の本題は「三幕構成を解説すること」ではありませんでしたね。この記事の本題は「三幕構成を通して『中二病でも恋がしたい!』の構造を観察すること」です。先にも申し上げた通り、この物語は非常に綺麗な物語構造をしています。まずはキャラクターを見ていきましょう。

主要キャラクター達

勇太(ゆうた)
本作の主人公。中二病だった過去を持つ。

六花(りっか)
本作のメインヒロイン。現役の中二病邪王真眼を名乗る。

森夏(しんか)
主人公と同じクラス。中二病だった過去を持つ。

くみん先輩
主人公たちの先輩。中二病ではない

凸守(でこもり)
主人公たちの後輩。ヒロインの六花とは旧知の仲。現役の中二病

一色(いっしき)
主人公と仲の良い男子枠。中二病ではない。

十花(とおか)
ヒロインである立花の姉中二病について思うところがある。

主要なキャラクターは上記の7人。物語は彼らを中心に進んでいきます。
あまり多くても混乱するのでここでは勇太と六花のプロットに絞り、物語の概略を追っていきましょう。

第1幕:中二病患者との出会い

第1話。物語は主人公である勇太の高校生活初日の朝から始まります。中学時代に重度の中二病を患い、自らをダークフレイムマスターと名乗っていた彼は、中学校の中で浮いた存在でした。

ダークフレイムマスター改め、富樫勇太(主人公)

そんな勇太は、自らの黒歴史である中学時代を封印し、心機一転、高校という新しい環境で青春を謳歌する決意を固めます。しかし、勇太の希望は初日から脆くも崩れ去ることとなってしまいます。何故なら、勇太のクラスには、現在進行形で中二病真っ只中の少女、六花がいたからです

邪王真眼改め、小鳥遊六花(ヒロイン)

勇太の家の真上に住んでおり、勇太が元中二病患者であることを知っていた六花は初日から勇太に絡んできます。これにより、勇太は自分が脱却したはずの中二病と再び関わることを強いられることになります。

不本意にも六花と関わることになってしまった勇太は、六花が拾ってきた猫の飼い主探しを手伝ったり(2話)、謎の同好会「極東魔術昼寝結社」の結成を手伝わされたり(3話)と、六花に振り回されていくこととなります。これが1幕の概要です。


猫の飼い主探しを手伝う勇太(2話)

それでは1幕で提示されたセントラルクエスチョンについて見ていくことにしましょう。勇太は最初、「中二病との決別」をしようとしていました。これは1話の序盤、勇太がこれまで愛用していた中二病アイテムを捨てようとするシーンなどからも見て取ることができます。しかし、ここで勇太のセントラルクエスチョンは「中二病との決別」と考えてしまうのは早計ですなぜなら勇太が考える「中二病と無縁の高校生活」は六花の存在によって早々に否定されるからです。

最初は嫌々であったものの、2話と3話を経ることで最終的に勇太は六花や彼女の持つ中二病に向き合っていくことになり、この過程で勇太の本当のセントラルクエスチョン「六花を正しく導くこと」であることが明らかになってきます。自分が脱した中二病という病からまだ脱しきれていない六花を見守りながら、中二病と向き合い、六花を正しい方向へと導いてあげること。今後、勇太は物語全体を通してそのために行動していくこととなります。

一方、六花のセントラルクエスチョンは2話の中で本人の口から明確に示されています。

「私は不可視境界線を見つけなければならない。必ず。」

2話、六花のセリフ

それは「不可視境界線を見つけること」。不可視境界線は、中二病の彼女が作り上げた仮想の設定であり、中二病の彼女は「邪王真眼」として「管理局」の妨害を突破し、不可視境界線を見つけることを目的としています。

六花のプロットは、勇太のプロットと同格のメインプロットとして進んでいくことになります。

第2幕前半:新たな居場所

第3話から第4話にかけて、紆余曲折の末に新たな同好会を結成した勇太六花。この同好会には勇太六花に加え、六花に呼ばれて部活にやって来た中二病仲間の凸守、その凸守が持っている自分の中二病時代の遺物を取り返そうとやって来た元中二病の森夏、猫探しの過程で仲良くなったくみんの5人が所属しています。

左から森夏六花凸守くみん先輩(6話)

5人の関係性は下図のような感じであり、これ以降、物語の中で「元中二病サイド」「中二病サイド」は対比されていきます。(主人公の視点を持つ良き理解者が森夏であり、六花の視点を持つ良き理解者が凸守です。)

それぞれの関係性。各視点にメインキャラとそれを支える良き理解者がいる。

同好会という居場所を得た勇太たちですが、5話において早速「同好会解散の危機」が降りかかります。なんと数学の試験で2点を取った六花は、先生から「期末試験で数学の平均点を上回らないと同好会を解散させる」と告げられてしまったのでした。六花に助けを求められた勇太は、しかたなく六花の勉強を見ることになります。

この5話では、中二病から脱却してキャラを変えようとしている森夏勇太に対して、中立的視点であるくみん先輩からこんな指摘がなされます。

「なんでそんなに(キャラを)変えたがるの?中二病ってなんか面白そうなのに…」

5話、くみんのセリフ

勇太と森夏はこれに対し「面白くない!恥ずかしい!」即答します。中二病を卒業した彼らにとって、中二病は恥ずかしい過去の汚点そのもの。
しかしくみん先輩は続けます。

「そうかなあ、なんか六花ちゃんたちの方が無理してないように見えるけど……」

5話、くみんのセリフその2

中二病を無理に脱却してキャラを変えることが本当に「正しい」ことなのか。この問いは後々になって大きな意味を持ってきます。

その後、勇太が勉強の面倒を見ることによって同好会解散の危機は回避されます。これはまさしく勇太が六花を導いた結果といえるでしょう。これがきっかけで勇太は六花との関係をさらに深め、続く6話では一色くみん先輩と同じ「中立的視点」として部活に加わり、物語は転換点へ向かいます。

ギターを弾く一色(6話)

ミッドポイント:不可視境界線の正体

中盤にさしかかった第7話。ここから物語はミッドポイント…すなわち大きな転換点に入ります。

六花の祖父母の家は、少し離れたところにある海沿いの街だった(7話)

勇太六花を含む部活メンバー達は、六花の姉である十花の願いで六花の祖父母がいる実家へと訪れます。しかし当の本人である六花はなんだか冴えない表情。
ここで勇太は六花の過去を、十花の口から聞かされることになります。

実家に来たものの、どこか浮かない顔の六花(7話)

実は、六花の父は3年前に他界していました。しかし、まだ幼かった六花にとって、父の死はあまりに突然のことすぎて受け入れられません。母は六花と十花を置いて家を出て行ってしまいました。そして六花は、新しい自分だけの世界──、中二病の世界を作ることにしたのでした。
邪王真眼である自分が父に会えないのは管理局が邪魔をするせい。奴らの邪魔を交わして、不可視境界線を見つければその先に父はいるのだ。自分が中二病の世界にいる限り、不可視境界線を発見できる希望がある限り、父に会える希望もあるのだ…と。幼い六花はそう信じ込んだのです。

7話では、不可視境界線がどのようなものであったかも示されています。彼女が言う不可視境界線、それは「水平線の向こう、陸を走る車や海を照らす船の光が反射して、キラキラと海が輝いて見える現象」
幼かった彼女にとって、それは父親との対話に思えました。
彼女は現世彼岸を繋ぐ境界線をその光景に見いだしたのです。

六花と、その向こうに光る海面(7話)

六花の過去を聞いた勇太は、部屋にひとりでいる六花に問いかけます。

「いいのか?不可視境界線を探しにいかなくても」

六花の過去を知った勇太が六花に語ったセリフ(7話)

これは六花にとって予想外の言葉でした。母も姉も、祖父母も、誰も不可視境界線を信じていない…そんな中でひとり寂しさを募らせていた六花。勇太の言葉は、彼女が今なによりも欲していた言葉だったのです。
勇太六花と共に、十花の制止を振り切って六花が幼い頃に父と暮らしていた思い出の家へと向かうことにします。

思い出の家は、売地になっていた(7話)

しかし、海沿いの道を自転車でひた走り、思い出の家に辿り着いた二人の前に立っていたのは「売地」の看板でした。車を走らせて二人に追いついてきた十花は、六花にこう言い聞かせます。

「これが現実だ。パパはもういない。それが…今だ。」

六花に向けて放たれた十花のセリフ(7話)

今まで現実から目を背け続けてきた六花に対し、十花は残酷なまでに現実を突きつけます。もうここに家はない、パパはどこにもいない。不可視境界線なんて無いんだよ…と。

ここで物語は大きな転換点を迎えることとなります。
六花の過去を知った勇太は、中二病が六花の現実逃避先となっている事実に直面します。現実から目を背け、中二病に傾倒する六花を、どうすれば正しい方向へと導いてやれるのか…。これが物語後半における主要なテーマとなっていきます。

勇太と六花(8話)

あと、もう一つだけ変わった点があります。それは、この一連の出来事を通して、六花勇太に対する恋心を自覚したことです。

第2幕後半:動き出す気持ち

ミッドポイントを経て、勇太は十花から出された難題に立ち向かっていくことになります。六花の中二病には父親の死から目を背けるという彼女なりの理由がありました。しかし本当にそれでいいのか。そんなモヤモヤを抱えながら、勇太六花は文化祭の季節へと突入していきます。

互いの好意を自覚した二人(10話)

一方で、互いの恋心を自覚した二人は9話の文化祭準備を経て正式に恋人の関係になります。恋人の関係になったことで、勇太が持つ「六花を正しい方向に導く」という使命はますますその重みを増していきます。

ファミレスにて十花と対面する勇太(10話)

クライマックスに差し掛かった第10話。六花と恋人の関係になった勇太が家に帰り着くと、そこには六花の姉の十花がいました。
彼女は勇太をファミレスに呼び出し、これからのことをポツポツと話し始めます。
仕事の関係で自分がイタリアへ行くことになったこと。
六花を一人でマンションに住まわせるわけにはいかないので母が代わりに六花と暮らすことになったこと。
これらのことを話し終わったあと、最後に十花は勇太に対して頭を下げてお願いします。

「頼む、なんとかしてくれ。お前が言えばきっと聞く。まともになれって、お前が言えば……!」

ファミレスで勇太と対面した十花のセリフ(10話)

勇太も、率直な気持ちをもってこれに答えます。

「六花は十分まともです。アイツにとってあの眼帯は、身を守る鎧なんじゃないかと思うんです。きっと、六花は分かってるんです、全部……。でも、どうしようもないモヤモヤがあって、だからああしてるんです。あの姿をすることで、アイツは守ってる。…(中略)…たぶん、無かったことになるのが嫌なんです。十花さんやお母さんの言うことを聞いて、飲み込んでしまったら、全部終わってしまう。それが嫌なんです。」

十花に対する勇太の回答(10話)

これに対して、十花はさらにこう続けます。

「…終わって何が悪い。境界線も、邪王真眼も無いんだぞ。パパはいくら探そうが会えない。アイツの言うことを肯定して、何が解決する。アイツが求めているものは、永久に手に入らないんだぞ!それを肯定するのは、無責任だ……。」

勇太の発言に対する十花の回答(10話)

「六花の中二病を肯定することは無責任だ」という十花の指摘に、勇太は答えることが出来ませんでした。この問いは、これからの勇太に重くのしかかっていくことになります。

シーンは変わり、文化祭当日。勇太の元に、一人の女性が訪ねてきました。
その女性は、まさしく六花の母親その人でした。

六花の母は、父の死後に六花と十花を置いて家を出ていったことで、六花の心を深く傷つけてしまったことを知っていながらも六花に会いに来ました。その手には六花のために作ったお弁当箱

六花の母から六花に向けた愛情の象徴、お弁当箱(10話)

六花の母はお弁当箱を勇太に預けると、勇太に問います。「あの子は…やっぱりまだ私に会いたくないでしょうか。」……勇太はこの問いに答えることができませんでした。

六花の母の愛情に触れた勇太は激しく揺らぎます。やっぱり六花の中二病を肯定することは無責任なのかもしれない。六花は、父の死を受け入れ、母と向き合うべきなのかもしれない。

そして勇太は六花に告げます。「眼帯を取れ、中二病をやめろ」と。

お弁当を手に、考え込む勇太(10話)

勇太はその時のお弁当を、森夏との会話の中でこう形容しています。

勇太「お弁当がさ……まだほんのり温かくて……。本当にずしっと重くて……。何か、詰まってるんだよ、いっぱい……。」
森夏「愛情が?」
勇太「現実が。」

中二病をやめるよう告げたあとの、森夏と勇太の会話(10話)

こうして長く思えた文化祭も終わっていき、後夜祭を経て物語は11話へ突入していきます。

第3幕:中二病を辞めた日

10話の最後、勇太から中二病をやめるよう言われた六花は、これを受け入れます。眼帯を取り、言葉遣いも変え、「中二病」から卒業した六花。彼女は「普通の人」になれるように努力を始めます。

中二病を卒業した六花と相対する凸守(11話)

しかし、これを認めないのが凸守です。彼女はずっと六花の中二病仲間として学園での生活を過ごしてきました。六花が中二病を卒業したことで一人残された彼女は、中二病の時の生き生きとした六花に戻って欲しいと必死に主張します。凸守は、中二病というアイデンティティを全て失った六花がいつも寂しそうな顔をしていることに気付いていたからです。
しかし、六花は悲しそうにそんな凸守を突き放します。

「中二病は、もう、卒業したの」

六花が凸守に告げたセリフ(11話)
凸守に「中二病は卒業した」と告げる六花(11話)

勇太の言葉を聞き入れて中二病を辞めたものの、どこか寂しそうな六花。勇太も周りのメンバーもそんな六花を見て「本当にこれでいいのか」と思っています。
「このままで良いのか」と全員が思っている状況。しかし勇太は安易に「これで本当に良いのか」とは言えません。六花を中二病から卒業させた自分がそれを言うのは、それこそ無責任ではないか……。勇太にはこの状況をどうすることもできません。

六花にかける言葉が見当たらない勇太(11話)

それでも。自分は本当に六花を正しく導けているのだろうか?六花に中二病を辞めろと言ったのは本当に正しかったのだろうか?「六花を正しい方向へ導く」という勇太セントラルクエスチョンはここで最大の危機を迎えます。

同じく六花セントラルクエスチョン「不可視境界線を見つける」もここで最大の危機を迎えます。不可視境界線は彼女の世界の中だけの存在。彼女が中二病を辞めてしまったら、もう二度と不可視境界線を見つけることなど不可能だからです。

部活動の解散を告げる六花(11話)

そして、ついに六花の口からこんな言葉が飛び出します。
「この部は…今日を限りに解散する」
中二病から卒業した彼女は、この居場所すら捨てることにしたのです。

クライマックス:中二病に魅せられた女の子

実家へ向かう列車に乗った六花(11話)

六花は母を安心させるため、自らの部屋にあった中二病アイテムを段ボールにまとめ、部屋を片付け、と一緒に亡き父親のお墓参りに行くことになりました。六花は勇太と、走って追いかけてきた凸守に別れを告げ、実家へ行く列車へと乗り込みます。

凸守は勇太に言います。「どうして止めなかったのか」と。
「どうして引き留めなかったのか、六花は勇太に『俺が一緒に不可視境界線を探してやるから行くな』と言って欲しかったのに!」

引き留めなかった勇太を責める凸守(11話)

さらに凸守は続けます。
「六花は勇太がいたから邪王真眼を守ってこられたと言っていた。勇太が心の支えだった。だから勇太が『不可視境界線はある』と言ったときに自分に電話をしてきた。恋人の契約を結んだときもそうだ。六花は泣いていた。勇太を信じていた。それなのになぜ邪王真眼は最強だと言ってあげられなかったのか。ずっと六花はそれを待っていたのに!」

勇太はこれに対し、こう返します。
「それを言ってどうするんだよ。不可視境界線なんて無いんだよ。あいつの父親は墓の中なんだよ。ないものはないんだ!」

凸守に現実を突きつける勇太(11話)

ここでの勇太凸守の会話は、ファミレスにおける十花勇太の会話の相似形です。中二病を肯定してあげたい凸守と、現実を突きつける勇太。あの時の勇太と同じように、凸守はこれに言い返すことが出来ませんでした。

しかし凸守に全てを言い放った後、泣きながら去る彼女の背中を見ながら、勇太は気付きます。

「違う……俺の言いたかったのは、そんなことじゃなくて……」

凸守とのケンカ後、勇太のセリフ(11話)

勇太も本当の気持ちでは、やはり六花の中二病を肯定してあげたかったのです。ここから物語は最終話へと突入します。

六花だけがいない、いつも通りの日常がやってきます。六花は父親のお墓参りに行って以降、学校に来ていませんでした。

森夏と勇太の会話(12話)

この最終話では、森夏と勇太の間で、重要なやり取りがなされます。
「中二病から脱して普通の高校生をやろうとしていた私たちも結局は『普通の高校生』という自分で作り上げたイメージを演じ、それに囚われているだけなのかもしれない」
中二病は、人が演じるイメージの、一つの形にすぎない。であれば肯定してあげることができる。森夏はそう勇太に告げるのです。中二病への新たな意味づけがここで行われます。

その夜、勇太は妹から「夕方、六花の家に引っ越し屋さんが来て全ての荷物を持っていった」ことを知らされます。六花は母を喜ばせるために、実家で暮らすことにしたのです。きっと勇太もそれを望んでいるはずだ、と思いながら。
自分の責任を感じ、激しく落ち込んだ勇太は、机の上に過去の自分からの手紙を見つけます。

過去の自分、ダークフレイムマスターからの手紙(12話)


過去の、中二病だった自分からの手紙。この手紙は勇太を動かす最後の一押しになります。過去の自分が今の自分を勇気づけたことで勇太は「中二病の力」に気付きます。

そして勇太は知ることになります。「六花もまた、昔の、中二病だった勇太に救われたのだ」と。

二年前、十花の家にはじめて来たとき、六花はまだ中二病だった頃の勇太に出会います。そして六花は憧れました。何にも縛られず、自由に、自分の世界観を表現している勇太に。六花は思ったのです。自分の気持ちを押し殺してなんでも言うことを聞いている自分よりも、よほど素直でかっこいいと。

そう、六花の中二病は、他でもない勇太が原因だったのです。

勇太に憧れた六花が、はじめて眼帯をつけた日(12話)

だから勇太でないとダメだった。六花にはずっと勇太が必要だった。
そのことを知った勇太は、彼女の実家まで六花を迎えにいくことにします。
夜遅く、自転車で駆けていく勇太。その目的は、六花にずっと心の底で言ってあげたかった言葉を言ってあげることでした。

自転車で駆けていく勇太(12話)

ラストシーン。六花は以前訪れた祖父母の実家にいました。
勇太は六花に問いかけます。他でもない、ダークフレイムマスターとして。

「つまらないリアルに戻るのか、それとも…… 俺と一緒にリアルを変えたいと思わないのか!」

ダークフレイムマスターが六花に向けたセリフ(12話)

その言葉をずっと待っていた六花は勇太の胸に飛び込みます。六花だって、本当はずっとリアルを変えたかったのです。

六花との再開(12話)

勇太六花を自転車の後ろに乗せ、家までの長い道のりを走り出します。
水平線には水面に反射した街の光がキラキラと輝いています。
それは、不可視境界線の光。
家路の途中、砂浜の向こう。六花はついに不可視境界線を見つけたのです。

不可視境界線の光(12話)

六花は不可視境界線の向こうへと叫びます。「さようなら、パパ」と。
不可視境界線の向こうにパパの姿を見て、ついに六花は、パパの死を受け入れて前へ進むことができたのです。

彼女の中二病は、もはや以前の中二病ではありません。父親の死を受け入れた彼女にとって中二病は、現実逃避先ではなく、自己表現の一つの形となりました。この瞬間、彼は自身のセントラルクエスチョンを達成できたことになります。六花も、不可視境界線を見つけパパに別れを告げることで、セントラルクエスチョンを達成し、物語はハッピーエンドを迎えました。

中二恋とはどんな物語だったのか

物語は、最後にこう締められます。

「中二病は恥ずかしい、と誰もが言う。もう二度と思い出したくない、消してしまいたいと。でも、あの時のどうかしていた自分は本当にいなくなってしまうのだろうか。自分は誰かに監視されていると妄想し、自分のキャラを設定して、なりきっていたあの時の自分は。人は時に妄言を吐き、突然変わる世界を夢想し、遠い未来を想像し、存在しない大恋愛を頭の中に描く。それは、生まれてから死ぬまで、人の中で延々と繰り返される……果てしなく繰り返される、悲しくて、恥ずかしくて、愛おしい、自意識過剰という名の、病。自分という名の、避けては通れぬ営み。
そう、人は一生、「中二病」なのだ。

最終話ナレーション(12話)

『中二病でも恋がしたい!』がどのような物語だったかは、このナレーションが全て語ってくれているでしょう。この物語は学園ラブコメディであると同時に、人の在り方──、「自分らしさ」の在り方を問う作品だったのです。

ブレイク・スナイダーは「SAVE THE CATの法則 本当に売れる脚本術」という本の中で、全ての物語は10のジャンル(物語類型)のいずれかに分類できると言っています。『中二病でも恋がしたい!』は、その10のジャンルのうち、「人生の節目」というジャンルに分類されます。

誰もがみんな絶対に通る道。死別、思春期、別離、中年の危機、青春。これらは、読者の心を深く揺さぶる物語を構成する大事な部品です。このジャンルの物語は、時を、文化を、人種を、性別を、そして年齢を超える普遍性を持ちます。なぜなら、人生は普遍的だから。何でも思いどおりになるわけではなく、ときには不親切で、不公平で、こちらのプライドも尊厳もお構いなしというのが、人生です。つまり「人生の節目」ジャンルは、ほとんどの場合、痛みについての物語。そして、苦しみ、失望、痛い思いをして得た教訓の物語になります。

フィルムアート社「きちんと学びたい人のための小説の書き方講座」より引用

そして人生の節目を描くために必要不可欠な3つの要素を、ブレイク・スナイダーはこう紹介しています。

①<人生の問題>:生きているだけで直面せざるを得ない問題や挑戦(思春期、青春、中年の危機、別離、死別、その他)。人として生きる以上、必ず現れる曲がり角。誰でも成長する以上は、その途中でいろいろ大変なことがある。
②<間違った方法>:やっかいな問題を解決しようとする。たいていは苦しみから目をそらすため。間違った方法という材料は2つの意味をもつ。変化を拒む主人公を見せるということ、見せることで物語に目的を与えるということ。人生に訪れた難題を、最初から悟ったように真摯に受け入れる主人公には魅力はない。
③<受容>:解決策は主人公がずっと抵抗してきた過酷な真実の「受容」にかかっており、変わらなくてはいけないのは周囲の世界ではなく自分だと、主人公が知ることである。人生は変えられないのだから、自分が変らなければ、という悟り。

これら全ての要素にあなたは見覚えがあるはずです。どこで?──この記事の中で。そう、『中二病でも恋がしたい!』はまさしく、中二病を題材に人生の節目を描いた作品だったと言えるのです。

おわりに

人はなぜ物語を欲するのか?その答えは、物語から何か意味のあるものを受け取ることができるからです。…とはいえ、劇中でキャラクターがいくら大金を稼いだとて、実際に私たちがお金持ちになるワケではありません。物語を通して我々が受け取ることが出来るのは、もっと内面的なもの── 物語を通して主人公が成長する、その「精神的な変化」。それこそが、私たちが唯一持ち帰ることのできるお土産なのです。

私たちの人生は時に物語に例えられることがあります。私たちを取り囲む大きな物語の中で、私たちはどうしても困難に立ち向かっていかなければならなかったり、大きな決断に苦しんだりすることがあります。物語は、そんな終わりなき日常を生きる私たちを勇気づけ、行動を促し、立ち直るきっかけをくれます。「中二病でも恋がしたい!」もその作品の一つです。

もしこの記事を読んで興味を持った方がいたら、是非アニメを見てみてください。綺麗な映像と、声優さん達の素晴らしい演技を伴って見る物語は、きっと素晴らしいですよ。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?