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「見る」ということ 世界はいかに私達の心の「目」に写り、像を結ぶのか

 ていくと申します。このnoteはホロライブプロダクション所属、儒烏風亭らでんさんによる企画【書庫らでん】へと参加するにあたり、読書感想文として書いたものです。詳しい企画の概要は彼女のXおよびYoutubeでの配信を参考にしていただければと思います。

 今回私はその中でも『目の見えない白鳥さんとアートを見に行く』(川内有緒 著)を拝読させて頂きました。ここでは、そちらを読んで私が感じたこと…というよりも、得た思索について記していきたいと思います。


  1. 「見る」ということ

  2. 結ばれるのは「写像」

  3. 芸術を「見る」

  4. それぞれの世界

1.「見る」ということ

 「目の見えない白鳥さんとアートを見に行く」はその名の通り、幼少より全盲となった白鳥建二さんをもとにしたノンフィクションの本です。目の見えない白鳥さんは、しかし美術鑑賞を趣味としており、そんな白鳥さんがいかに芸術を「見て」いるかが序盤の内容となっています。盲目の白鳥さんは視覚に頼ることができないため、主に隣にいる人の感想を「聴く」ことによって、作品を「見る」ことができます。作品の前に立ち、隣で視覚を使い観ている人同士の感想から、その作品を鑑賞します。
 私達が「見る」という時、それは常に視覚による行為を指します。桜を見た、看板を見た、絵画を見た…等々。それは厳密には物体に反射した光が、私の眼球を通すことで脳によって処理された情報です。普段は意識しないことですが、私達は非常に多くの情報を視覚により受け取っています。朝目が覚めた時、私は音によって目覚ましの大体の位置をとらえ、その後、視覚によって目覚ましを見つけ、アラームを止めます。その後、顔を洗う洗面台も、朝食も、家を出るためのカギも、視覚によって再発見します。昨日確かにそこに置いたはずでも、わざわざ手触りで探したりといったことはまず行いません。視覚は、「生命活動に必須なもの」ではないですが、私達が「今の生活を続ける」ためには欠かせないものなのです。
 普段なにげなく活用している視覚ですが、細かいその原理については、驚くほど複雑で、奇妙な原理に基づいています。たとえば今この瞬間、あなたはモニターから光が発せられているだけのものを見て「これは文章だ」と判断し、その内容を理解することができています。先程の「目覚まし」という文字列からは、よくある目覚まし時計を思い浮かべる人もいれば、スマートフォンを思い浮かべる人もいるでしょう。「朝食」という文字列はさらに幅広く、パン、ご飯、シリアル、スムージー等々、人によって考えるものは様々です。しかしいずれも、ただの文字という情報から、私達の脳は様々な思考を巡らせることができます。

2.結ばれるのは「写像」

 先程は視覚のみの例でしたが、聴覚でも同じことが言えます。「目覚まし」という文字列を見た時と、目覚ましという言葉(音)を聞いた時、私達はほぼ同じものを思い浮かべます。目が見えず、実際に飛行機を見たことのない人でも飛行機を理解できるのはそのためです。盲目の子供に飛行機の模型を渡し、「この模型よりもずっと大きくて、中に人が入れて、すごいスピードで君の上を飛んでいくんだよ」と教えれば、視覚に頼らずとも飛行機を理解することができるでしょう。ここで大事なのは、それが文字列であること、言葉であること、模型であることです。極端な話、その子供に直接本物の飛行機の全体を触らせ、実際に乗せ、振動や音、そして身体にかかる重力を体感させることでも、飛行機に対する理解は生まれます。しかし、飛行機ならまだしも、宇宙ステーションなどは、それを実際に触れさせることは不可能に近いでしょう。よって、私達は様々なものごとをその【写像】から思い浮かべます。

しゃ‐ぞう〔‐ザウ〕【写像】 の解説
1 対象物をあるがままに写して描き出すこと。「人生の精確なる—ということを」〈抱月・文芸上の自然主義〉
2 物体から出た光線が鏡やレンズなどによって反射または屈折されたのち、集合して再びつくられる像。
3 数学で、二つの集合A、Bがあって、Aの各要素aにBの一つの要素bを対応させる規則fをAからBへの写像といい、f:a→bと書く。

出典:デジタル大辞泉(小学館)

 ふつう、視覚として考えるのであれば2といえるでしょう。私達の眼球にはレンズがついており、そのレンズを通して外からの光をとらえ、写像を結びます。しかしレンズをもたない盲目の人であれば、1によって対象をとらえることになるでしょう。ですが落ち着いて考えてみると、1もまたおかしな話です。あるがままに写すのであれば飛行機は何十メートルにもなりますし、東京タワーなどは333メートルの用紙が必要になります。そのため、私達は模型や「◯◯のような」という比喩、言葉を用いることによって、その対象を理解するようにしています。東京タワーであれば、33cmの模型を用意し、「本物はこれの1000倍大きいんだよ」といえばある程度はイメージがつくようになるでしょう。
 2も、実はおかしな点があり、それは作中からも伺えます。

「あの当時、けんちゃんにね、盲学校の授業ってどんなものがあるの?とか色々聞いて教えてもらってたことがあるの。その中で、『けんちゃん、映像ってわかる?』とか『手に持ってるリンゴってさ、さっき泊まってたホテルよりも大きいんだよ』とか話してたんですよ。すると、けんちゃんは『えー、だってさっき俺たちが泊まってたのは、三六階のホテルだよ。それよりリンゴが大きいってどうして?えー!?』みたくなるわけですよ」

「目の見えない白鳥さんとアートを見に行く」本文より引用

 これは当時から盲目であったけんちゃん(白鳥健二さん)の友人であるホシノマサハルさんの言葉です。ホシノさんが見た世界を白鳥さんに説明しているものであり、いわゆる「遠近法」に関することを話しています。私達が視覚によって見ている世界はこの法則により、近いものは大きく、遠いものは小さく見えています。天の光はすべて星であり、(月と太陽系内の惑星を除けば)地球よりも何倍も大きな星々が、私達の視覚では小さな粒にしか見えないのです。
 猿猴が月を取る、ということわざがあります。猿が湖に映った月を取ろうとして溺死したという話で、分不相応な野望は持ってはいけないという教訓です。目が見える私達は、しかし視覚があるために、それに騙されることがあります。目が見えないからこそ、正しく見える世界というものもあるのです。

3.芸術を「見る」

 一口に芸術といっても、その内容は多岐にわたります。絵画、彫刻、建築と方法はさまざまであり、さらに絵画の技法ひとつとってもキュビズム、印象派等々、歴史とともに様々に分類され、名付けられています。白鳥さんは、その多くを好み、様々な美術館に通うヘビーユーザーです。その楽しみ方は、序盤に触れたように、人の話を聴くことによって作品を「見る」という方法です。そのうえで、人によって見方が違うことを楽しみます。たとえば芸術作品といっても、ピクトグラムであれば、ほとんどの人にとって感想は同じになるでしょう。
「頭蓋骨が描かれ、その下にバツ印になるように二本の骨が重ねられています。危険を表しているのだと思います。」
たとえば「毒 ピクトグラム」で検索すれば、そうとしか答えられない絵が多く並んでいるでしょう。白鳥さんの好む芸術とは、そういった答えのあるもの、誰でも同じように見えるものではなく、同じ作品を前にして、人によって回答が全く異なるものなのです。
 芸術は、それが作品である以上、作成者によって様々な意図が込められています。しかし、作者がそういった想いを遺さなかったもの、記録が散逸したものなどは、その意図を想像でしか知ることはできません。また、その作品を見た人それぞれの強い感情を誘起させることを目的とした作品も多くあります。エドゥアール・マネ代表作「オランピア」などはその最たるものでしょう。「見る」人の経験、記憶、古傷、そして「見られる」ことへの恐怖など、芸術はその人の人生を映す鏡でもあるのです。


4.それぞれの世界

 生物から見た世界( ユクスキュル 著 , クリサート 著 , 日高 敏隆 訳 , 羽田 節子 訳)という書があります。

 こちらの本はさまざまな生物から見たこの世界を解説したものであり、チョウや魚、カタツムリやクラゲなど、多くの生物から「見た」世界が説明されています。たとえばイタヤガイなどは、動くもののみが自分に関係があり「見るべき」ものであり、それ以外の静止したものは全く見えていないとされています。また盲導犬の説明では、イヌは帰巣本能があるので家に導くことを覚えさせるのは容易だが、運動能力の高いイヌにとって小さな段差などはほとんど見えていないものであり、覚えさせるのが難しいとされます。さらに難しいのは、頭上にありイヌには当たらないが、導いている人には当たる、開いた窓のような障害物です。本来イヌにとっては全く関係のないものを「見える」ようにするためには、たいへんな努力が必要なのです。
 イヌは人間の何千倍も嗅覚が鋭いといわれており、そういった意味でイヌに「見える」世界は私達と全く異なります。また、私達は自分がしっかりとした視力を持っていると思い込んでいますが、これもまた完全なものではありません。多くの人がもつ錐体細胞(色を判断する細胞)は3種であり、これによって私達は三原色を見分けることができます。しかし実際のところ、この錐体細胞を4種持つヒトも多く確認されています。三原色の世界は、決して普遍的ではないのです。

 世界とは、その人の知識、経験、目的、良かったこと、悪かったこと、興味があること、興味の湧かないこと、見えるもの、見えないもの、聞こえること、聞こえないこと等々、様々な写像と経験によっていかようにも変化していきます。何かを「見る」時、そこには自分の世界すべてが含まれているのです。「今、ここ」にある世界は刻々と変化していく、私達はそんな世界を生きているのでしょう。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。


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