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72歳の挑戦「庭子ブエノスひとり旅」


静岡に生まれ育ち、72歳になるまで静岡以外で生活したことなかった私が90日間ブエノスの旅に出たことは、他人から見たらどれほど突拍子もない行動だと思われたことかと。
この度、90日間のブエノスひとり旅の話をする機会を頂きました。
「ブエノスに90日間行ってきた」という良き思い出を単に浸っているだけでなく、このように検証する場所を頂いた肥田さんに感謝申し上げます。この冊子は、皆さまの前でお話するために書きとめたものです。

危険な国といわれるブエノスから無事に帰って来れたのは「SUERTE 幸運」でした。『72歳で長期の海外旅行』は海外保険に加入は出来ないって。保険会社2社に問い合わせして断られました。故に、怪我もなく無事帰ってこれたことに安堵です。日本に帰ってきて1ヶ月経った今日このごろようやく身体がほぐれてきました。

1.はじめに

 ブエノスから帰ってきたらみなさん「若くなったね」と言うんです。若くなった?どういうことだろうかと逆に質問したら「刺激だよ」と言われました。そうか刺激かあ。

 『人生百年時代』と言われる今日、刺激があるとボケないとか。刺激って“百の良薬かも”。ブエノスでの異次元の世界で、私自身の奴隷の部分が少しでも解き放たれたからかな。

 過日、静岡のお友達と我が家で手作りの焼きそばでおしゃべり会をしたとき、庭子さんはタンゴの話になると「少女のようだった」と、後に頂いたメールにお礼の言葉と一緒に書いてありました。うれしいわ。日々、老いていくことを目の当たりに感じている中で「少女のよう」という言葉。「少女のよう」というのは刺激があるときに「少女」になるのかな。ということは刺激って心身ともに若返りの良薬であるということになるということだわ。

 結果としてブエノスひとり旅は、70年余生きてきたそのご褒美を頂いた感じです。90日という月日の中でブエノスの風に吹かれて、タンゴを愛するだけでなく、『ブエノスの街に人に恋をした』のです。

 実際に体験した街の空気感や息遣いは、映画においても如実でした。2年前に全国の映画館で上映されたドキュメンタリー映画「ラスト・タンゴ」を観ました。私が丁度タンゴという岩戸に立った頃です。7センチのピンヒールの靴を履いて立つのが怖いと言っていた頃です。「ラスト・タンゴ」を観に行き、

只々眠ってしまいました。タンゴをされている方々は口を揃えて「良かった」といいます。「良かった」ですか?ではもう1回見てみようと。観ました。やはり眠ってしまいました。

 ブエノスから帰ってきて10日程経った頃、ブエノスの街に恋した私は映画の「ラスト・ランゴ」を再び観てどんな印象をもつだろうか。観るといいよと戴いてあったホームビデオをかけました。観ていてあの街の姿・空気・息遣いはまるで肌を重ねたようでした。熱く観ました。テレビなどで疑似体験するのと実体験する違いはなにものにも代えがたいものだなぁとあらためて思いました。

 「行ったもん勝ち」という言葉をいままでにも何回となく旅した人から聞いていたのですが、「『行ったもん勝ち』といわれてもねえ」金銭的にも状況からみてもと否定してきましたが、結果『行ったもん勝ち』ね。 

 まあ、お金に余裕があって行ったものでもなく老後の生活は不安という荷物はちょっと横において「今がチャンス」でね。ブエノスでの後半の生活は「こんな贅沢をしていいですか」「許して頂けますか」「ありがとうございます」と思わず神に祈りました。

 ブエノスで知り合った花さんという女性は大金持ちで、使いっぷりが半端ではない。「やはりお金が一番物を言うのよ。庭子さんもケチケチしないでさ。死んでお金を持っていけるわけでもないんだから」。私は胸の中で「死んでもっていけるわけでもない」と言ってみたいもんだわと思いましたわ。まあまあ。

 おひとりさまの行動を『ソロ活』というんですってね。
日本では婚活・終活、最近の流行語には冷え性の人が体を温めることを“温活”ですって。1人で居酒屋に、1人で温泉に、1人で観光地に、1人でホテルに泊まるなど、おひとりさまを『ソロ活』と。

 ブエノスでタンゴが踊れるコミュニティの場所をmilongaというのですが、1人でmilongaに行くと「ソロ」かと尋ねられ「Si(そうです)」。また、レストランなどでカフェを注文して砂糖もミルクもいらないときは「カフェ・ソロ」といいます。日本では喫茶店で珈琲といって注文するのですがブエノスでは「コーヒー」といってはダメよ。妙な顔されますよ。「カフェ」と注文するんだよ。『コーヒー』は隠語になっているとか。私はブエノスのいたるところで一人で動いて「ソロ活」してました。

 「おひとりさま」という言葉の響きは甘く感じられますが、私のおひとりさまはすごく勇気がいります。が、“挑戦”です。「やってみないとわからない」ですからね。居酒屋に1人で入るのも私にとって勇気がいりますが挑戦・挑戦でやってみます。挑戦とはできるかできないか試すことと解釈してます。できないことにエネルギーを使うのでなく、「できるじゃん。やれるじゃん。そんなに臆病にならなくても」と楽しむことにエネルギーを使いたい。挑戦して思いがけない出会いを頂いて、「楽しいな」です。

 私が挑戦といって試みてきたのは「人間は死ぬまで挑戦する能力を持っている」という言葉です。この言葉は1946年、ポール・ラグランがユネスコで長寿社会・少子高齢化社会・情報社会にいち早く警鐘を鳴らしたなかで出てきた言葉で、私が52歳で常葉大学教育学部生涯学習学科に学生で入学して学んだ言葉です。ナゼ、52歳で大学に?は後ほど。

 56歳で卒業して中学校の不登校教室やNPO法人を作って“たのしいな・ぬっくいな・きらきらと・むちゅうになって・ららら”をテーマに子どものための「たぬき村」の理事長を6年歴任。その後大学側から「大学内にコンビニを入れるのでやらないか」と降って沸いたようなお話をいただきました。ですが、私は経営の経験なし資本金なし保証人なし。ないないづくしでした。起業家支援に相談に行きました。あなたの『たぬき村』活動をみてます。「やってみてもいいじゃないか」と銀行からの出向の初代所長さまの応援で保証なしでお金を借りることができました。ちょうどそのころは団塊世代が55歳定年で退職後を考えなくてはならない社会的課題の時代でした。沢山の新聞社が取材に見えました。取材を受けて「やれますか」と記者に問われて「58歳、やってみないとわからないわ」「なんとかなるわよ」と答えたらそのまま大見出しで活字になり、恥ずかしいやら笑えるやら。

 常葉大学瀬名校舎でコンビニを「駄菓子屋カフェ・ワイショ」と名付けて平成12年(2005年)の開業から平成30年(2018年)2月まで営業させて頂き、30年4月より大学が草薙の学園都市に移転するまでの13年間お世話になりました。気がつけば13という数字は良い数字です。良い数字を頂いて完結です。やり尽くした気持ちが「完結」と言葉になりました。お陰様です。学生さんと一緒で楽しかったあ。

 「やってみないとわからない」「なんとかなるわ」は、ブエノス行きにもつながっているのです。困ったもんです。ナゼ?ブエノスに行くようになったかもあとで。

 ブエノスにいるときに樹木希林が亡くなったことをFacebookで知りました。そこに樹木希林さんが残した言葉が書かれていました。「年齢を脱ぐ、冒険を着る」宝くじにあたったような言葉です。胸にストンと落ちました。ブエノスにいたからこそ「年齢をぬぐ、冒険を着る」がすっと入ってきたかと。今の私だわ。そうだよね。それでいいんだよねと、肩の力が抜けました。私はブエノスなんかに来てしまってバカなことしているのかなあと前半は沸々としたことも度々。

 90日のブエノス滞在を終えて日本に着いた翌日に樹木希林が出ている映画『日日是好日』を観に映画館に足を運びました。危険な国から戻った直後の『日日是好日』はゆったりと流れる空間にふるさとに戻ったような安心感が漂いました。日本人としての血かも。

 「すぐわかるものと、すぐわからないものがある」映画『日日是好日』の中で樹木希林が言ったこの言葉にもアルゼンチンタンゴもそうだよなあと重なりました。

 アルゼンチンタンゴもマエストラ・ラウルが「庭子は頭で考える」と頭を指差します。『日日是好日』でお茶の先生が「頭で考えないこと。手が覚えるから、手が動くから、手に聞いてごらんなさい」という場面がありますが、タンゴもそうです。ちょっとやって慢心の心になる。次には自分がいかに傲慢であるかを気づかされる。タンゴは人生そのものだと重みを感じるのです。

 アルゼンチンタンゴのマエストロ達にはタンゴの『道』を経た人生のスペシャリスト的な品位と風格が漂ってます。「10年後のテイコのマエストラの姿を見たい」私は80歳になっているわ。「歳は関係ない」10年を目安として忍耐強く学ぶこと。タンゴとはなにか?「人間です」と言い切ったアルゼンチンタンゴのあるマエストラの答えに、とてつもなく奥深く広い宇宙を相手にするような。

 タンゴを通じて人間力を磨かせていただいてます。故に魅了させられてやまないです。

『年齢を脱ぐ、冒険を着る』を勇気づけにして、きっと死ぬまで「すぐわかるものと、すぐにわからないもの」を探求してタンゴの『道』を歩いて行くことでしょう。

2.背景

 今は「離婚したもん勝ち」とこれもいえます。
 昔、母から「普通の人でいいんだよ」と、私が30代後半で離婚した時に言われたわ。本来のブエノスの話からそれますが、なぜブエノスに?というときに遡ってつながるのではないかと思うので話します。

 私の嫁入りの当日、「再び敷居をまたいではならぬ」とそれが父の祝いの言葉でした。そういう時代でした。いまは嫌ならいつでも戻っておいで、ですよね。「旦那さんは公務員で真面目、実家は農家で家も建ててくれたし。あんたのわがままだ」「離婚するなら勘当だ」「スミマセン、私の我儘です」。養育費もなにもいらないから離婚をお願いしますと家庭裁判所で離婚が成立した後に女の人がいたのがわかって、ただ単に私の我儘だとはいえないなこれって。慰謝料も養育費も請求しても良かったんだと思ってももう後の祭りです。そのときも私ってほんとバカだなあと思いましたよ。戻ってくれといつも押しかけてきていた彼も数年後に再婚していたことがわかって、あんなに懇願していても、なるほどねえです。私の近親者からは「今は強がりを言っても“おもらい”に来られては」と断絶です。未だに断絶です。天涯孤独だと思うときもありますが私には2人の娘たちが居ましたし、出会いをいただいた友人たちもいるから天涯孤独ではないわと寂しさを払拭しました。私の姉のご主人様は民生員のお役で国から功労賞を頂いた人ですが、近親者から離婚者を出すのは「みっともない」と断絶です。おもしろいですね。人様のお世話をしても自分の身内には「みっともない」という考え方。「みっともない」「はしたない」「お天道様に笑われる」と育ちました。

そうそう、洗濯ものを物干し竿に干すときも「お天道様に笑われる」とよく言われました。シーツなどは特にシワをピンピンと伸ばして裾を合わせて、などとしつけられました。

 そういう時代でした。この歳になってもこの3つの言葉がよぎり私自身を奴隷にしてきましたが、アルゼンチンに行ってこの3つの言葉から開放されたようでした。

 私としては唯の人です。あまりにも無知というかバカかというところはありますがね。只々真面目にバカみたいに一所懸命に生きてきたなあと思います。私の子どもは「お母さんはクレージーな人」といい、ポップな人は「天空な庭子さん」で、学生さんは「かっこいい庭子さん」とそれぞれ言ってくれます。そうそう学生さんから「少女のよう」とも言われました。「庭子さんは学生さんと一緒にいるから若いのね」ともいわれ、「はあ」です。大学の先生や職員さんたちから若さを感じたことはと逆に問いかけます。

 「学生さん」という言葉が出ました。学生さんとどんな関わりがあるかと思うでしょう。

 お仕事は?とブエノスでもよく尋ねられました。

 「今年の2月まで大学にいました。仕事を完結してブエノスに来ました」

 「何を教えていたんですか」

 学生さん、大学ということばに反応して『教授』のイメージになるのでしょう。そこで肩をすくめながらニンマリしてフフフと笑って「英語とスペイン語を教えていました」というと「庭子のジョーク、よく理解します」と大笑いです。現地で友だちになった大金持ちの花さんは「学生が可愛そう!」と真面目に言いました。私がスペイン語と英語はUn Poco ポキート・ポキート(少し)と知っているので大笑いでした。ポキートTeikoです。

 私52歳、バブルが弾けたころです。

 私の仕事は社員教育の仕事で「ソロ活」してました。中小企業とかデパート、飲食業や官公庁、税務署などで接客応対のマナー訓練をし、高校、短大、大学では就職するためのマナー訓練を主にしてました。パブルが弾けて新人社員を採用しないときがあり大口の中小企業との契約が切れました。

 丁度そんな時に以前から早稲田大学大学院文学部の深沢道子先生の『国際TA―心配性を失くす―』の講座を申し込んであったので受けました。お昼休みに廊下のソファに座っている私のところに先生がみえました。私の隣りに座って「池田さんはどうですか」と声かけてくださいました。私は「仕事がなくなり打ちひしがれてます」。すると、第一声「あら!よかったわね」というじゃありませんか。教授はお金に困ったことないからそんなこと言ってと、声には出しませんでしたが胸の内で思いましたよ。でも次の言葉は「時間が出来たじゃない」でした。「国際TA」の考え方は「囚われた考えから開放する」です。比喩的にいうならば“空調の詰まったホコリを払う”という考え方です。

 「良かったわね」「時間が出来たじゃない」の言葉に一瞬頭が真っ白に。次の瞬間に「そうなんだ。時間ができたんだ」と。身体にストンと落ちました。いままでは忙しい忙しいと子どもと触れ合う時間もままならなかったが、「そうだよ。時間ができたんだよ」と空調の目詰まりしていたホコリがポタンと落ちたような。考えが切り替わったのです。打ちひしがれていた自分から「時間ができたんだ」となんかワクワクするような気分になりました。思い出してもあの時の状況が走馬灯のように見えてきます。新幹線に乗って家に着き夕食を娘と一緒に食べました。娘は丁度大阪の大学を卒業して帰ってきたところで台所でけなげにお茶碗を洗っていました。母子家庭の中で大学を卒業させて頂いたお礼の気持でしょうか。健気な姿でした。私は食後のテーブルでなにげに静岡新聞を開くと『常葉大学教育学部生涯学習学科新設』社会人募集・奨学金もあるという活字がが目に止まりました。

 今は「人生百年時代」という。私は今から20年ほど前の50歳を超えたとき振り返ってみると50年という私の人生は何を意味するのだろうか。これからも長寿社会の中で好むと好まざると否応なしにあと半世紀を生きるかも生かされるかも。生きてきた50年とこれからの50年をつなげて残された半世紀をどう考えて生きていったらよいかと、ふつふつ思っていた頃でした。『生涯学習』の活字に反応しました。「ちょっと冷やかしで試験を受けてみようかな」「そうだね、交代してもいいかも」と言ってくれた娘に感動。結局、娘が育英資金の保証人になってほんとに交代になりました。それで52歳から大学生をさせていただき卒業のときは56歳になってました。

 「同じ授業料じゃないか」と励ましてくれた先生は言いました。取れる資格は全て取りました。美術の教員資格(中・高)・図書司書・博物館学芸員・青少年野外指導者資格…等々7つの資格。今ではそんなことできないようですが卒業時には240単位とっていましたから2つの大学に同時に通ったようなものです。面白い面白いと朝9時から夜9時までずっと授業を受けていました。

 まあ、私としては普通の人のつもり。

 『年齢を脱ぐ、冒険を着る』という言葉も普通のこととしたい。できるか出来ないかわからないが興味を持った「もの」「こと」は、“やってみる”。死ぬ時に「ほんとうはブエノスに行きたかたんだ」といってもね。あれをやりたかたんだー、あれを食べたかったあーと後悔しない生き方ですね。全てではないがと前置きして、ある程度やりたいことはやる! 食べる! 死にむかって活きていることを自覚して、判断と選択そして決断ができるように感性感覚を磨いていたい。

3.アルゼンチンタンゴとの出会いは?

 「私70歳になったんだー」と70歳を認識したとき、「健康と美」を考えたんです。ラジオ体操?フラダンス?タップダンス?今ひとつピンときません。思った時が『吉日』。やらないと時期を逃してしまう。20歳代の時に少しやった社交ダンスにとりあえず行ってみるか。

 「50年ぶりです」とご無沙汰の挨拶をした机の上の「アルゼンチンタンゴ」のチラシが目に止まりました。「やってみたら」と先生の声です。70歳ですよ。私にできるかなあ。「まあ、試しよ。ためしてみたら」の声に後押しされてレッスンを受けました。これがアルゼンチンタンゴをやりはじめた出会いです。

【効用】
1.ウェスト10センチ細くなった。
タンゴをやり始めて手持ちの昔のスカートをなんとか利用できればとタンスの底からとりだした。履いてみるウェストが程遠い。測ってみると72センチあった。自分でもびっくりする。それから1年たったときに測ったら10センチ細くなっていた。

2.腰から足先までひどい痺れがあったのが無くなった。
あんなにひどい痺れで身体の全エネルギーを吸い取られてやる気を無くしていたが痺れがいつの間にか無くなった。

「タンゴは日本の演歌です」と言った人がいました。
 タンゴの曲を意識して聞いたことない私が「70からのタンゴ」で突如習いだして1年目の2016年の晩秋だった。

 タンゴレッスン場にRobrrto Goyenecheが歌う『CHAU ...NO VA MAS』が流れた。歌う内容はわからないが鳥肌が立ち熱いものがこみあげてきた。なぜそれほどまでに感動したのか自分でもわからないが衝撃的だった。

 アルゼンチンタンゴをやり始めると音楽も聴く会があるよと教えて頂いた。この会の人達は中学生の頃ラジオから流れてくるアルゼンチンタンゴに魅せられて今は70~90歳がほとんどというタンゴの曲を聴く息の長い愛好会でした。2次会で初めて会う世話人の飯塚氏に平凡な質問で問いかけた。

「飯塚さんのタンゴとの出会いは?」

「ラジオだよ。中学生のころにラジオから流れてくるタンゴに惹かれたよ。当時はラジオだよ」

 「そうかあ、私の小さいときは浪曲です。ラジオで母が浪曲をよく聞いていたので、私も馴染んで育ったようで案外浪曲が好きです」。大学生時代といっても私の大学時代は52歳でしたが図書館学で『浪曲の広沢虎造』をテーマにレポートを提出したわ。

 晩年母はボケましたが死ぬ間際のときCDとラジカセを持って枕元で浪曲の広沢虎造を流したら目がパチリと開いてね。

 もう一つ目パチリの話を。流動食もペロペロと舌で出してしまい実家の義姉さんが困り果てていましたが、私は元魚屋だった母にアワビのスープを持って『おばあちゃん、アワビだよ』と口元に持っていったら目がぱっちり開いて口を開けました。ちなみに10年前でもアワビ6千円でした。今でもアワビを見ると母のことを思い出します。余分な話で失礼しました。

 「そうなんだよ。好きなものに目パチリだよ。小さいときにどんな出会いがあったかだよ。僕はラジオでタンゴ。庭子さんはラジオで浪曲ね。浪曲とタンゴとつながるものがあるんだよ」

 タンゴ愛好会は13:00~16:30までとたっぷりタンゴに聞き惚れて浸る。生演奏と歌に酔いしれる。会費も安く1500円で贅沢に聴けて有難い。

2次会の隣同士では 「タンゴって元々は、日本の作業歌が民謡になり芸術性になっていくのとおなじで、タンゴも夢見て移民してしてきたが夢破れ嘆き悲しみ、やけっぱちな気持ちが民衆の歌となりダンスとなって発展して芸術に。弥生時代の埴輪も祈りからであり、陶芸も日常から芸術性に発展していくんだよね」

 そんな話のなかで、はっと突然閃く。
あっ、そうなんだ。私の小さいころの浪曲広沢虎造は、Robrrto Goyenecheが歌う「CHAU ...NO VA MAS」と繋がっていたんだ。母と繋がったのが嬉しい。
 タンゴは浪曲であり、タンゴは歌謡曲とも言われるゆえんでした。

私がタンゴに惹かれるのは
 「人間を語っている」からです。タンゴを踊るのでなく人間を語っているところです。私的に捉えたのはタンゴは動く禅だと思いました。タンゴの形と心は座る座禅、歩く禅と同じ。タンゴは浪曲・歌謡曲だという人間臭さに惹かれます。

4.アルゼンチン90日のひとり旅になったきっかけ

 「出会いです」。
 たまたま東京のダンスの会場で隣りに座った方に「はじめまして」と挨拶したのをきっかけにKさんという女性とお話したのです。「ブエノスに行きます」「へえ、興味あるわ。お話聞かせて」と、喫茶店にいってお話を聞かせて頂きました。Kさんはブエノスや中南米に何回も行っていると。Kさんのブエノス生活が5ヶ月過ぎたころ「いつ来るの?私がいるうちにいらっしゃいよ」とメールが来ました。そこまでいってくださるならと。私のバカさが出るのですが。スペイン語も英語もダメな私です。日本人が経営している宿がいいじゃないと教えて頂いた宿を予約し、飛行機のチケットも買いました。Kさんに飛行場に迎えに来てくださいねとお願いすると「あなたに24時間ついているわけにはいかない」とメールが来て「えっ!」となりましたが、もうテープは切ったあとです。ブエノスに旅立ったのです。

ブエノスでは3回引っ越ししました
 1番目のシェアハウスはKさんから紹介頂きました。ブエノスの一番寒いときにまさか暖房がないとは。致命的問題でした。後で現地の人に話すと現地の人さえ暖房がないとはありえないと言われました。

 1ヶ月500ドル(1日17ドル)。日は当たらず暗くて、石造りのお部屋は冷たくて。外出して寒かったから早く家に戻って温まろうでなく、外で歩いていたほうがまだ温かいわでした。べットは腰がわんぐり沈み込み朝目覚めると腰がイター!です。これがブエノスシャワーか。最初に経験したシャワーは冷たかった。でも、これがブエノスなんだと。幸いにも日本から寝袋と湯たんぽを持って行っていたので助かりました。ヨガマットを買って床に敷いて寝袋生活です。

 「サバイバルですね」とFacebookにメッセージが書かれていたのを読んで「あー、こいうのをサバイバルというんだ」とはじめて気が付きました。必死でブエノスに順応しようとしていたからサバイバルなんて気が付きませんでした。でも震え上がっていたので熱も出たり鬱状態に。「これはいかん」と。1日も早く暖房のある部屋に移りたい。

 2回目のアパートは300ドル/月(1日10ドル)。暖房さえあれば天国だと決めました。途中インフレが急速にひどくなり電気代が600%も値上がったと家主さんはキリキリ。電気を付けると「庭子」と睨むんです。私は懐中電灯の生活となりました。

 3番目の宿ではじめて快適に愉快に過ごすことができました。
そのきっかけをいただいたのは、初めてのタンゴスタジオに恐る恐る参加したときのこと。グループレッスンが終わった時に先生が「ヨウコ」と言っているではありませんか。「子」の音に反応した私は傍に近寄って「日本人ですか」と日本語で話しかけました。「アメリカ在住の日本人で陽子です」と自己紹介してくださいました。

 「スタジオの近くに宿をとっているのでこの足で寄っていきませんか」と誘ってくださいました。歩きながら実は宿のことで困っていると話すと「まず、問題解決しましょ」とクリアな応答です。家の中に入って直ちにネットで調べはじめました。こんなのがあるよ、タンゴエリアがいいねとか。ネットの申し込みはパスポートの認証と顔写真などを登録する必要があると登録手続きをしてくれました。「アパートの候補を出しておきます。後はあなたがゴーサインするだけ」というところまで手をかしてくれました。ありがたかったです。多くの人は「あーすればいいよ」と口で言ってくれますが手を直接貸してくれる人は稀です。ネットのことは口で言われても「はあー」と戸惑って結局できない私です。「問題解決しましょ」とクリアにいった陽子さんは私の天使となりました。

 ネットで申し込んだアパートは台所も広くて自炊が楽しくできました。「庭子の部屋」と名付けて快適快適となりました。私はセレブではないので月1000ドルは迷いましたが私の年齢からいうと快適さには替えられないと、ここはえい!清水の舞台から飛び降りる気持ちで。床暖房あり、大きな窓で日当たり良く、キッチンも広くて生活するものはすべて揃っていました。コーヒーマシンもありました。無いのは味噌汁をすくうお玉でした。穴が空いたお玉はありました。スパゲティ用です。

 セレブといえば宿を紹介してもらうためにアルゼンチンに40年も住んでいる日本人のTさんを紹介していただきました。Tさんは宿を紹介するにはコーディネーター料として500ドル頂きます。成立しても成立しなくて500ドルだと。不動産で言う仲介紹介料ですかときくと不動産屋ではなくコーディネーター料だという。「私はセレブでないから」とお断りしました。

 陽子さんは後の「ブエノスに恋をする」きっけけになったリカさんにも繋げてくれました。「私は後3日でアメリカに帰ります」リカさんにあなたをつないでおきましょうと、リカさんの家に連れて行ってくれたのです。危険地域といわれるボカ地区の近くにリカさんは住んでいました。

 陽子さんからリカさんと繋がった時は、私のブエノス生活1ヶ月半が過ぎた頃でした。前半は怖い国で縮こまって毎日部屋から出ない日が多かったです。リカさんと繋がってからはブエノスパラダイスです。楽しくなり「ブエノスの人に街に恋する」となりました。
 お二人は私にとって天使となりました。

5.ブエノスは地球の何処に?

 ブエノスまで何時間かかるの?「飛行機で36時間」。
直行便は?「ないです」。
 中近東のイラク周りでブエノスに入る人が多いようです。私にはチケットを探してくれた人がエチオピア経由を紹介してくれました。流石に安いです。16万円程でした。ですがお金に替えられません。DELTAは40万円でしたが乗り換えが少しでも楽なところ、身体が少しでも楽なところを選んでアトランタ経由でアルゼンチンに入りました。

 地球儀でみてもブエノスは日本と真反対のところです。
 季節も反対。私が日本を立つ時は7月で日本は超がつくほどの猛暑でした。ブエノスに着くと真冬です。寒さを堪えて過ごしたブエノスでの生活も慣れてきた頃にはそろそろ帰ることを考えていかなければという頃に。「庭子の部屋」のベランダから見る樹々たちも芽が吹き始めみるみるうちに新緑が鮮やかになりました過ごしやすくなっていました。

ブエノスの国民性
 ブエノスはなにもかも反対の国です。人間の骨格も反対。指で数を数えるときも反対。挨拶の仕方も反対。

ブエノスの地図を部屋に貼って、行ったところは印をつけて街を覚えるようにしました。

 私が感じたブエノスの国民性は、右脳(感性・芸術性)が発達している国民性か、アーチストが多い。関西系でおしゃべり好きでジョークが好き。音楽が好き。

日本人に友好的
 タクシーに乗ると「チノ?」(中国人)と聞いてきます。「ノー、ハポネサ」日本人ですというと態度がガラリと変わり友好的になります。先人の日本の移民者たちが汗と努力で真面目に働いてアルゼンチンの人から信頼信用をいただいていたのです。その恩恵を頂いてアルゼンチンでの私達の今があると先人のつながりに感謝です。

 「あなたはアルゼンチン好きですか」タクシーの運転手が後部に座っている私に声かけます。「アルゼンチンの人は優しくて明るくて好きです」というと運転手さんはうれしそうにニッコリします。今度は私が「あなたは日本が好きですか」ときくと「大好きです。日本に貴女と一緒に行きたい」といいます。ムーチョ・リンドウ(大変よいわ)。お互いに明るくジョークの会話になります。

 でも治安の悪さと町の汚さ。タクシーに乗ると運転手さんは「今日は日曜日、あなたは何をしたか」など話しかけてきます。
 「SUERUTE (幸運)」といって降りますと、「SUERUTE」と応答して喜んでなにか言ってくれます。言葉はわかりませんが、幸せ気分になります。

 ある日はミロンガでの朝帰りのときのことです。巨匠という人やその仲間が私が安全に帰るようにタクシーを捕まえて私の住まいの住所を運転手さんに伝えてその後も何やかや会話してから私をタクシーに乗せてくれました。「着きました」と声かけられるまで私は眠ってしまったのです。運転手さんは「タクシーの中で眠ってはいけない」というようなことを真剣に心配するような言い方で私に諭してくれました。そして大きいなお札しかなくてと差し出すと僕も朝一番だからまだお釣りの用意は出来てない。お釣りを出せないからお金はいらないから降りろという。私はそんなタダ乗りは出来ない。チップだと思って取ってくださいといってもいらないという。その話を後で知り合いになった日本人に話すと「ありえないありえない」と言っていました。タクシーの運転手さんは騙す人が多いから気をつけてねというが親切なタクシー運転手さんにであうと「幸運」だとおもう。

 今日はアルゼンチンを発って日本へ帰ります。飛行場までと言うと、タクシーの運転手さんは『さようならアルゼンチン』の歌をハンドル片手に情感たっぷりに歌ってくれました。昼間はタクシーの運転手、夜はタンゴを踊りに行くと話されました。

治安の悪さは国の経済と結びついてます
 インフレが酷いです。
 路上生活者が列をつくって寝ています。犯罪は昨年の2倍とか。日本が援助したという大きなゴミ箱が路上に置いてあるのですがゴミ箱をあさって生活している人も多いので道路はゴミが散らばっていて汚いです。「道路を歩くときは」下を見て“うんこ”を踏まないように。“穴凹の道”が当たり前になっている歩道に足を取られないように。ひったくりに狙われていないか左右に後ろに目配りして、物が落ちてくるかもと上に注意が必要です。

 南米のパリといわれ観光客でもっているようなブエノスですがヨーロッパ系の観光客はほとんど見当たらないです。

 電気料金は3年前の600倍とか。知り合いになった現地の1人暮らしの女性は電気代が2万円になったと嘆いていました。
 公共交通機関のバスと地下鉄は私がアルゼンチンに入ったときは8ペソ(32円)でしたが、私が10月に帰るときは16ペソ(82円)になっていました。
「ケチャップ事件」「発泡事件」もありました。「気をつけてね」といってくれます。「気をつけてね」が挨拶になっていました。

6.ブエノスはどうでしたか?

 『ブエノスの人と街に恋』をしました。
 天国と地獄の別れ道になった場所で「外界で面白いことあったか」と聞かれたら「ブエノスでの出会いは宝と思ってます」と答えるでしょう。

 「幸運」にも、陽子さんがつないでくれたリカさんと出会い、なかなかお会いできないマエストロ・マエストラたちとの出会いは刺激的で友好的です。ファミリーのように受け入れていただきました。

 ブエノスを発つ時は「庭子はいつ(ブエノスに)帰ってくるんだ」「ただいま~」と言ってブエノスに帰りたいと思うほどにみなさんが口々に言ってくれました。

 最初のサバイバルで惨めな思い、日中でも外を歩く時は心臓が止まりそうに緊張して歩いたり、怖い国ということで外を歩けなかったのですが、その経験をしたからこそか、その後は幸運にも住むところの快適さや人との繋がり「出会い」を頂いてありがたくて、おかげさまです。

 とくに、きょうもお見えいただいているリカさんとの出会いは何回も言うようですが「天使が降りた」です。毎日、友好的な出会いを頂き刺激的でした。リカさんは関西出身でブエノス在住。プロのタンゴダンサーで指導者であり、ミロンゲーロスの自主映画プロデューサーです。日本とブエノスの架け橋で20年間行ったり来たりしてます。リカさんとパートナーのホセさんとの会話は、関西のお笑いのようで笑いが絶えないです。

 ブエノスはあきらかに関西系のお笑いです。関東系ではないですね。
 ホセは私と踊っていてもテーブルに座っている人のところにいって「私の歳が幾つに見えるか」「庭子は91歳だ」。するとテーブルに座っている人が私の顔をじーっと見て「オーノー!」肌もつるつるではないかなどと言っているのがジェスチャーでわかります。私はずっと91歳でした。まあの安全にも。甘い話はなくなりますがね。

日本にも昔あった『地域の家族』家族のような地域。milongaにいくと、山田監督が描いた地域の家族を感じます。そうそう、タンゴは「リスペクト(敬意)」の中で踊ります。

 milongaに行った時のこと。
 「あそこでバンドネオンを弾いている人、日本人のようだよね」声かけてみようか。
 「奥村です。明日お茶しませんか」。お茶しながら「タンゴショーもみたいが1人では」と言ったのがきっかけでバンドネオンの奥村さんが所属している高級タンゴショーにご招待いただきました。

素直に声を掛けるといいことが起こります。

毛糸屋のソフィアとの出会い
 アルゼンチンを発つ時、ソフィアは私に白いセーターを記念にと差し出しました。給料は上がらないが電気代が月2万円ほどになったと言っていた彼女です。1ヶ月の給料の3分の1ぐらいのお値段の白いセーターを買ってプレゼントだと。彼女の熱い想いを大きなハグで抱きしめた。

 ブエノスの街は毛糸を扱う通り、貴金属を扱う通り、マネキンを扱う通り、問屋街など扱うものによって通りが決まっているようです。私が通ったタンゴスタジオは毛糸を扱う通りを抜けていきます。その通りで間口1間半の小さな店で毛糸のファッションを扱っている店のショウウィンドウのセンスの良さが目に止まりいいなあと毎日眺めて通っていました。入ってみたいが言葉がネックで、躊躇して入れません。でも、きょうでここを通るのも最後と言う日に思い切ってドアをトントンしました。どこでもそうですが店のドアは鍵がかかってます。私が日本人だとわかると彼女は「少し日本語を習ってます」と。急に親しみを感じお友達になりました。「庭子の部屋」に彼氏も連れて遊びに来てくれました。ブエノスの代表的な食べ物である「エンパナダ」やアルゼンチン独特のドルセル・デ・レイチェのアイスクリームなども持ってきて「庭子の部屋」に3回ほど遊びに来てくれました。私の娘のようなお付き合いが始まりました。

ワインバーでの出会い
 彼女は中国系で専門分野の海外旅行をしているかたです。日本語が少し話せます。私が「2番めの家で電気が使えなくて不便している。住むところをチェンジしたい」というと一所懸命私が住む家を友だちに聞いてくれました。来年日本での仕事が入っているから日本で会いましょうと言ってくれました。Milongaでの通訳もしてくれました。彼女にも「庭子の部屋」で薄卵焼きだけの握り寿司でおもてなしをさせていただきました。

 88歳のマエストラ・リディアに「庭子の部屋」でレッスンをして頂き、レッスン終了後はにぎり寿司でおもてなし。薄焼き卵はだれにでも好まれました。

日本人の先人が汗と努力でアルゼンチンの地元の方々から信頼信用を頂いたのが今日の私達があると思うと、私は出会いとおもてなしで私のできることをして未来の人たちにつないでいきたいと思いました。

「出会い」というネーミングのワインをお土産に持ってきてくれたリカ&ホセ


7.マエストロ・ラウルとの出会い

 リカさんとの出会いはなんども「天使が降りた」といっていましたが、リカさんからお薦めと教えて頂いたTacuariレッスン場でマエストロ・ラウルは教えていました。この出会いも幸運でした。リカさんのおかげです。

 私の母は魚やでした。「ナヨナヨしていると魚が腐る」というのが母の口くせで身体を張って生きている人でした。潔い母でした。父はマグロ船でインド洋に1年がかりでいってました。「海は広いぜ-」が口癖でした。

 ラウルも身体を張って活きている人だなあと。また世界でショーをして歩いたラウルには心の広さがあり、短い言葉から心の暖かさが伝わってきます。

 レッスンのときはその場でパッと一言。ときには股をポンと叩く。そのなかに優しさがあふれています。大好きなラウル、巨匠のラウルとデモしてもらえるなんて思ってもみなかったです。ラウルにまいるでマイマイ舞あがります。

ラウル・ブラボーの紹介

 ラウル・ブラボーは、ブエノスアイレスにタンゴスクールを2校開校し、伝説のマエストロとして多くのダンサー、マエストロ達を育て上げた巨匠です。

 ブエノスアイレスではMaestro de maestros =マエストロ達のマエストロと呼ばれ、彼から教えを受けなかったダンサーはいない!と言われるほどの正真正銘の巨匠。

 彼はボクサーとしてボクシング選手権でサンタフェからブエノスアイレスへやってきました。ボクサーだけにその鋭く素早い身のこなしを生かした彼のタンゴスタイルは唯一無二。彼の地面に吸い付くような足元と、アブラッソから繰り出されるダイナミックなリード。

 彼はレッスンでいつも言います。「なんでお尻に棒を刺したみたいに固まってるんだ!ロボットじゃあるまいし!」彼の言葉は、飾り気が無く、一見厳しく聞こえます。でもとっても正直で愛情深い。そして、その言葉はまさにノックアウトされるように核心をついている。

 全ての情報が、分解されて噛み砕かれて提供される現代において、一見彼らのような教えに戸惑うこともありますが、実はとてもシンプルで的を得ているのです。そして、いつでも、私たち自身が自ら嚙み砕き、分析し、考える余地を残してくれます。そのプロセスによって私たちが成長できるように。(byマエストラ・リカ)

終わりに、

『人生百年時代』において、72歳という私の人生の中でブエノスひとり旅は価値あるものとなりました。それはその後の生き方の指針となりました。 「すぐわかるものと、わからないもの」をゆっくりゆったりと楽しむ年齢にはいりました。そんな時空で、さらなる挑戦をうれしいなと楽しみたいとおもいます。 

いままで“生かされてきた”ということを実感してます。ゆえに私ができることで恩返しさせていただきたい。「うれしいな、楽しいな」で恩返ししたい。

私が好きな言葉は「人間は死ぬまで挑戦する能力を持っている」と「年齢を脱ぐ、冒険を着る」です。心身ともに健康だからこそできるありがたさを大切にして、これからも。何が起きるかワクワクの人生で活きたいと思います。

ここまでお話を聞いて(読んで)頂き、ありがとうございます。

イノシシの年、皆さまにとって幸せ多い年でありますように。

2019年1月吉日

                   池田庭子


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サイクリング歴30年、学生さんと一緒に走ってます。 70歳になってTangoという電車に乗りました。 樹木希林さんの言葉の「年齢を脱ぐ、冒険を着る」を楽しんでいます。 神奈川県湯河原町在住

コメント3件

二年半前に会社の先輩が60才で亡くなりました。
一緒に東京見物に行き、その後ほとなくして脳腫瘍がみつかり、一年も経たないうちに帰らぬ人となりました。なんでも話し合える、会社で一番の先輩だっただけに大変なショックをうけました。
その頃、自分もいろいろと困難な状況にありました。
その時、一番感じたのは”命は限りがある”という事実でした。日々の生活の中では、明日は当たり前にくるものだと錯覚しがちですが、本当は当たり前ではないのです。
そんなことを、庭子さんのお話しを読んで思い出しました。私も樹木希林さんの生き方が好きです。「日日是好日」もとても気に入っています。
素晴らしい記事をありがとうございました。
ingmu0788 さま
メッセージありがとうございます。
大切な先輩がなくなった時のショックは言いようがなかったと思います。
「命には限りがある」「頂いた命・生かされている命」先輩の分まで生かされているかと。・・・私の方こそ勇気づけられました。
拙い文章を応援してくれる方がnoteを作成してくださいました。出会いに幸運を頂いてます。
昨日もあなたは「素直に生きなさい」というお言葉を頂きました。でも素直ってむずかしいですよね。でもでも、バカと言われても良いから素直に直感で活きたいとおもいます。
春を呼ぶ雨。一雨ごとに春が近づいて光がさしてます。
あなた様のご縁に感謝します。
お返事ありがとうございます。こうやってメッセージ交換していると、SNSの向こうに生身の人間がいるんだと実感できて感動します。
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