画工桑嗣燦が事 神絵師が「神」絵師に敗れて死ぬ話

これも江戸時代後期の国学者、宮負定雄(みやおい やすお)の『奇談雑史』から。巻七にある話。

文化年間(1804~1818)の頃、紀州は和歌浦に桑山嗣燦という名画工が住んでいた。字は子戔、号は玉洲といった。
その名は四方に聞こえ、嗣燦自身も自分より優れた腕の画工は、天皇の治めるこの国にはおるまいと己を誇っていた。

ある日、嗣燦の自宅へ一人の容貌の美しい童子がやってきて宿を乞うた。嗣燦はその童子を泊めてやり、いつものように画を描いていると、童子も庭の地面に画を描いて、
「某の画は汝の画よりも優れているぞ」
と言った。
この言葉に激怒した嗣燦は、
「今日、天皇の治めるこの国に私を越える画工はいないはずだ。そうであるのに、汝のような小童が何故にそのような傍若無人な過言をするのだ。妙手であるならば描いて見せてみろ」
と紙を渡すと、童子はすぐに並々ならぬ素晴らしい山水画を描いてしまった。
嗣燦はその画に大いに驚き感じ入りつつも、負けじと心魂に力を込めて山水画を描いたのだが、童子の画には及ばない。そのことに憤り、自分の画を破り棄てると、童子の描いた画も消え失せて見えなくなってしまった。
と同時に、童子の姿もたちまち行方知れずとなった。
この時から嗣燦は狂人となり、とうとう死んでしまった。

げに絶世の画工といえども驕慢の心が出てきたので、天狗魔縁の類に誑かされてしまったのだろう。かの童子は幽冥界の者であったと言われる。

桑山玉洲(1746~1799)は江戸時代中期の南画家。そのため、文化年間には既に没している。

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