「いま」を生きる君へ Tシャツとかヒップホップとか

みなさんはプリントTシャツを買うとき、
何をポイントに見ていますか?

絵柄がかわいいとか、書かれているコトバがいいとか、
いろいろありますよね。
そういうのはもちろん個人の好みなわけだけど、
なんとなく、そのときどきの傾向みたいなものはある。

たとえば、アーティストとかデザイナーが描いた
すごくキレイでよくできた絵がプリントされた
Tシャツってありますよね?
そういうの、ぼくは今着る気にならないんです。
どちらかというと、工業製品のロゴマークなんかが
ポンと置かれているようなのが、グッときます。

コトバを書いてあるやつだと、そうだなあ、
反社会的だったり、皮肉っぽかったり、
メッセージ色がちょっとでもあると、もうダメですね。


これはわりと昔っからそうなんですけども。
ぼくが今までで一番ショックを受けたのは、
ごくフツーの書体で、胸に「Alaska」と入ったヤツ。
え、そんなののどこがいいのかって?
いやだって、アラスカですよアラスカ。
ぜんぜん意味わかんないじゃないですか。
いや意味はアラスカなんだけど、
それをTシャツにするってどういう意味があるのか。
それを胸につけて街を歩くって、
一体どういうことなのか?
ってつい考えちゃう。

まあ、ここまで極端というかミニマルな表現でなくても、
わりとさりげなかったり、意味性が少ないTシャツが、
最近では多くなってきた気がします。

ぼくはTシャツってメディアの一種みたいに思ってるし、
そう言ってる人もいるけど、その性格は、
ずいぶん変わったんじゃないかと思っています。
メッセ-ジ性が強いメディアだったのが、
何かこう、もっと違ったものになってきてる。

なんというか、いまって、
Tシャツを、CDとかそういう嗜好品と同じように
考えている気がするんですよ。

それってどういうことなんでしょう。
CDみたいに、と言われても、よくわかんないですよね。
ええと、たとえばってことで、こういう例はどうでしょう。
今の人たちがTシャツを買うときのノリって、
こんな感じだと思うんです。

「あのTシャツ、もう見た?」
「ああ、あれいいよねえ」
「どうする?買っとく?」
とか、
「おっ、そのTシャツいいね」
「ああ、○○で売ってるよ。
 でも数少ないから早くしないとなくなるよ」
「そっか。じゃあオレも買っとかないと」
とか。

なんとなくわかります?
なんていうんでしょう、「着る」という実質的な機能から、
かなりハミ出してますよね?

CDを買うようにTシャツを選び、
飽きてきたら次を買う。
マニアになってくると、
まるでDJがアナログレコードを漁るように
レアな限定もの、ダブルネームもののTシャツを
日々追い求め、ショップに徹夜で並んだりするのです。
いやこれ、ぼくはさすがにやりませんけど、
ホントの話なんですよ。

こういうことって、たとえば、
「現代の消費社会は、モノ自体の意味から浮遊した、
 差異という情報を消費しているのだ」
とかって、一般論としては言えてしまうと思うんだけど、
そんな大げさな話じゃなくて、
もうちょっとミクロにというか、
「Tシャツっていうのは、いまのぼくらにとって
 どういうものなんだろう」
っていう、身近な気になることとして
考えたいなあと思っているんです。

Tシャツの買い方がCDの買い方と似ているっていうのは、
つまり、「“いま”を買う」というのと、
「気分に合わせてチョイスする」ということが
あるような気がします。
このへんにヒントがあるのかな。


Tシャツっていうのは、いまのぼくらにとって、
CDなんかと似てて、「いま」であり、
「シーンや気分に合わせてチョイスするもの」って
言ったけど、それってどういう感じなんでしょう?
そもそも、CDというか、音楽はいま、
どんな聴かれ方をしているんでしょう?

ちょっと前、そうだなあ、20年くらい前までは、
音楽ってもっと、「のめりこむもの」だった気がします。
具体的に言うと、
特定のアーティストやジャンルに入れあげる、という感じ。
彼ら彼女らが提供する、
「これが今はいいんですよ」という認定書つきの音楽を、
供給されて、ぼくらは喜んでいたっていう気がします。

ところが、今はあまりそういう感じがしません。
もっと聴く側がアクティブというか、
自分の考えや感覚で、選んで聴いているし、
「いま」というのが、おのおのの聴き手で
ばらけてる気がします。
しかもたとえば、
あるときキューバ音楽に熱中していたとして、
そのことは本人が充分に意識して、
自分で選択してそうしてる、って感じがあります。
ある種、音楽に対してクールに接してる。

DJというのは、それが病的なまでに高まった状態、
といえるんじゃないでしょか。
彼らは、膨大な音楽のなかから、
最も「いま」を感じさせるものをチョイスし、
それに飽き足らずに、自分の好みに合わせて、
いくつかの音楽を混ぜ合わせたり、
好きな部分だけを組み合わせたりして、
新しい音楽をつくろうとしています。
これは、音楽好きの極限の状態、
音楽家と同列に並んだリスナー、というふうに
考えてもいいんじゃないでしょうか。

こういうのを見ると、
音楽を提供する側と、聴く側の境界が、
ほとんどなくなりつつあるという感じがします。

ところでDJは、いわゆるアーティストっぽい方々が
なーんとなく勢いを失うのと入れ代わりに、
音楽の世界の前面に出てきた感じがあります。
(いまはまた、ちょっと違う流れが
 起りつつある感じもあるけど)
つまり音楽の聴き方の変化と、
ちょうど軌を一にしていると思うんです。

で、DJというのは、黒人のヒップホップ文化から
出てきたものですよね。

そんでそんで、TシャツをCDやレコードのように買う、
あるいはTシャツをそういうものとして提供する、
っていう動きも、
ヒップホップやその周辺の文化(スケート・ボードとか)の
盛り上がりと、シンクロしてると思うんですよ。
つまり、Tシャツっていうものを
メディアとして面白がってるのは、
このへんに関係する人たちが多いんです。

あっ。
これ、このコラム書き始めたときには
全然考えなかったことだけど、そうだ、そうなんですよ。
いや自分でも意外な流れになってきました。

そこで唐突に仮説です。

「ヒップホップは、音楽とファッションに、
 ある種の“自由”をもたらした、かもしれない」
 
いやいや、決してうさんくさくはないですぞ。
…と思うんだけど。

このあたりのことを検証するために、
話をTシャツ(ファッション)にしぼって、
ヒップホップとアイビーとの関係ってのを
考えてみようじゃないですか。

ヒップホップはファッションに“自由”をもたらした?
えーほんとかよ、適当なこといってんじゃないよ、って
思います?思いますよね。
いやぼくだって、自分でもほんとかな、って思うんだけど、
いろいろ考えてみて、やっぱりそうじゃないかなあって。

アイビーとの関係で考えると、そう思うんですよ。
ヒップホップというのが登場するまで、
この何十年かのファッションというのは、
アイビーとの距離の取り方で成り立っていたと思うんです。


つまり、反発するにしろ、取り入れるにしろ、
モードというのは、アイビーを
常に意識してきたんだと思うんです。


アイビーをくずす、アイビーをベースに発展させる、
アイビーと何かをミックスする、
アイビーを極端にして新しいものをつくりだす、
アイビーが絶対やらないことをやる。などなど。

たとえば、コム・デ・ギャルソンなんかもそうですね。
アイビーが基礎にあって、その上で過激なことや、
自由な発想で遊んだり、進化させてる。
しっかりした基礎部分があるからこそ、
自己満足に終わらないクリエイティブになってる
代表例じゃないでしょうか。

アイビーを極端にする、っていうのでは、
ヴィヴィアン・ウエストウッドがそうですね。
めちゃめちゃでかいアーガイル柄とか、
かならずアイビーというか、トラッドいうかが、
モチーフになってますね。
だから、すっごいユニークなスタイルをつくりだしても、
ちゃんとサマになるというか、安心できる部分があります。

じゃあ、
オースティン・パワーズみたいなサイケっぽいのとか、
パンク・ファッションはどうなんだよ?っていうと、
これはアイビーに対するアンチとして、
位置づけられると思います。


コモン・センスなものというか、
カタギのアイビーに対して、「オレたちはちがうんだぜ」
ていうのをすっごい意識してると思います。
でもパンク・ファッションなんて、
さっきのヴィヴィアン・ウエストウッドが
つくったようなもんだし、
サイケにしても、カラフルな色以外は、
アイビーよりさらに時代をさかのぼる、という形で
距離を取ってる感じで、実はアイビーの重力圏を、
そんなに出てないという気が、ぼくはします。

それなら、ヒップホップはどうなのか?

初期の上下アディダスのジャージに、金のクサリ、
なんてのは、醜怪なことこの上ない、と
当時も今も思うけど、でも今ふりかえってみると、
そのたたずまいは、アイビーがどうの、とかいうハナシを
突き抜けてた気がするんですよ。

ヒップホップ・ファッションには、
アイビーに対するアンチがない、と思うんです。

ヒップホップの流れをくむファッションって
どんなのでしょうか。

スケートボードやスノーボードなど、
ヒップホップ周辺でかっこいいとされているスタイル、
スノボ・ジャケット、マウンテン・パーカ、
ゆったりめのチノパン、大きめのスエット・パーカ、
カーゴ・パンツ(いわゆる軍パン)、
ナイキとかスポーツブランドが出しているウエア
(ウインド・ブレーカ、ナイロン・ブルゾン、
 ナイロン・パンツ、ジャージなどなど)、
スニーカー、そしてTシャツ。

そういうのが思い浮かびます。
なんだ、結局決まったアイテムがあるんじゃないか、
そう言われてしまうと確かにそういう面もあるんだけど、
やっぱりアイビーとは完全に切れているし、
なにか別の哲学をもってる、って感じがします。
いや哲学なんていうと大げさだけど。

簡単に言ってしまえば、「リラックス」「チル」とか、
「動きやすい」とか「気持ちいい」とか、
そういうことがテーマになってる気がします。


それイコール「自由」ではもちろんないんだけど、
そういうテーマに合ってれば、
なんでも取り入れる用意があるフレキシブルさとか、
「これは新しいんだ」というポーズ、
つまりアイビーからの距離というものを
ハナから意識していないという点で、
ぼくは自由を感じているんだと思います。



いままでのモードは、必ず戻る先があって、
それがアイビーだった。


でもヒップホップ的な流れというのは、
動きっぱなしの、いつも模索中の、
戻り先がないものだと思うんです。


そこがある種の自由さなんじゃないかと
思っているのです。

で、いきなりまたTシャツの話にもどるんだけど、
アイビーという枠組みには、
「Tシャツ」というアイテムは、
実は存在しなかったんじゃないでしょうか。


いやTシャツ自体はあったけど、
夏は暑いししょうがないから、っていう感じで、
決して正式メンバーじゃなかった気がするんですね。
あれはゴマメだから、っていうような。


全体的にいえば、みんな「Tシャツなんて」という目で
Tシャツを見てたんだと思うんですね。

でもこのごろは、
それがけっこう重要なアイテムになってきてる。
ヒップホップ的なものが好き、という人は、
当然、Tシャツは夏のメインアイテムになるし、
そうなるとかっこいいTシャツが欲しい、って
なるわけだけど、
そうじゃない人でも、けっこうTシャツのこと、
気にしてると思いませんか?

ということは、「リラックス」「動きやすい」
「気持ちいい」みたいなことが、
みんなにとって、重要なことになり始めてるって
ことなのかも知れない。
あるいは、ヒップホップ的な自由さ、ってものに、
みんなが敏感になり始めてるんじゃないでしょうか。

はじめてヒップホップっていうものの存在を知ったとき、
実にうさんくさい、いやなものが出てきたな、という
気がしたのを憶えています。

どうやってそんなことを思いついたのか、
頭を支点にしてぐるぐる回るブレイクダンス。


じっとレコード聴いてられないのか、
レコードこすってキュッキュ音をさせるスクラッチ。


そんなことをしてなにが楽しいのか、
壁にスプレーでラクガキするグラフィティ。


おまえらそれがカッコいいと思ってんのか、
上下アディダスのジャージ。


おいおい、そんなことやっていのか、
勝手に2つのレコード混ぜてかけるDJ。

すべてがインチキくさくて、メチャクチャでした。


「なんだよあんなもの。すぐ消えていくさ」というのが、
正直な気分でしたね。


けど、どうにも無視できないパワーというのが
確かにあった。

そういう「なんでもアリ」という姿勢、
何かに対するアンチじゃなく、
既成の価値観をハミ出していくパワーって、
消えるどころか、だんだん一般に
浸透していってる気がしませんか?


というか、いままでの価値観でやってると、
どうにも息がつまってやってけない、という感じが、
ぼくらのなかで、すごく大きくなってるのが、
「いま」じゃないでしょうか。

だからこそ、ヒップホップ周辺から出てきたものって、
どんどんメジャーになっていってる気がするんですよ。


DJ、グラフィティ・アート、スケートボード、スノボ…
どれも「ルール」があんまりないものですよね。


自由にいろいろやって、
たまたま、うまいヤツが新しいワザ開発しちゃったり。
そういう感じがウケてるんじゃないかなあ。

そういう気分に合う格好っていうのは、
そのへんに実際関わってる人たちが
一番よくわかってるわけだから、
ファッションも、彼らの作りだすスタイルが支持されて、
イキオイをもって街にあふれはじめてる。

Tシャツも、そういう“自由”のニオイを感じさせる
アイテムの一つとして見られるようになってきていて、
だから、CDのようにTシャツを買う、っていうことが
あり得てるんじゃないのかな。


彼らはTシャツそのものより、商品のリリースのしかたや、
プレゼンテーションを含めて、そこに体現された、
「自由にまつわる何か」を買ってるんじゃないでしょか。

さて、読んでいただいてる方のなかには、
というかほとんどの方は、ヒップホップがどうした、
なんてことは意識されてないと思います。


でも、自由を求める、という点では、
似たような気分がありませんか?

「どのデザインがいいですか?」っていう

アンケートをやったときに
ぼくが一番おもしろかったのは、ほとんどの方が、
単に希望のデザインを伝えるだけでなく、
「ここがこうだったら、もっといいのにな~」という、
「自分にとってのベスト」を
書き添えていらっしゃったことなんです。

ぼくは、生活していくなかで必要なものに関して、
自分でつくれるものは、
自分で気に入ったものをつくる、というのが、
これからはオシャレなんじゃないかと思ってるんだけど、
間違ってないんだと思いましたね。


つまり、いくらいいものでも、みんな市販のものでは、
完全には満足できなくなってるんですよね。

自由というのは、環境も含めて自分の手でつくるところから、
そしてそうすることでしか、得られないんじゃないかって
ぼくは思ってるんだけど、それはつまり、
「ぼくの自由」であり、「あたしの自由」であって、
とっても個人的なものなんだと思うんです。


「ぼくらの自由」ってものはないんじゃないか。


それにみんなが気づいて、気づくだけじゃなくて
何か手がかりをつかもうといろいろ模索している、
それが、ぼくらの「いま」であり、
Tシャツひとつにも、それはあらわれてきてる、
そんなふうに思っているのです。


Raserkey.

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