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【小説】最も肝心な記憶

「じゃあ、この契約書に、フルネームでサインしてくれるかね」
ばあさんは俺にそう言うと、黄ばんだA4の紙を差し出した。

〈______は、この店の主・ゆり婆に、最も肝心な記憶を百万円で売却する〉
たった1行、横書きでそう書かれただけの、あまりにもあっけない契約書だ。
でも、この下線部にサインさえすれば、俺はすぐに百万円を手に入れられる。

先日、ギャンブルに熱くなった俺はつい、ヤバい奴から金を借りちまった。
今夜中に百万円、耳を揃えて返さなければ、東京湾の底に沈められてしまうのだ。

◇◆◇

「でも、本当にいいのかい?」
カウンターの向こうで、ゆり婆がバカにしたような口調で言う。
「たった百万で、そんな大切なものを売っていいのかねえ」
「俺はどうしても、今すぐ金が要るんだよ。売れるものなら何でも売るさ」

あのスナックには、ゆり婆っていう耄碌もうろくした婆さんがいてさ、記憶を売ると言えば金をくれるよ。
悪友にそう教わったから、俺はわざわざ、こんな場末の店までやって来たんだ。
確かに、記憶を売ると言ったところで、脳みその中身を取引できるはずがない。

「はいよ、婆さん。これでいいんだろ」
俺は契約書に自分の名前を書き、投げるようにカウンターへ置いた。
「後悔はないんだね?」
バーボンの水割りを作っていたゆり婆が、グラスを俺に手渡しながら言葉を添える。
後悔も何も、記憶なんか差し出せるはずがないのに。

「ないよ。ないからさ、さっさと金をもらえないかな」
「わかったよ。すぐに用意するから、それを飲んで待ってな」
ゆり婆はそう言い残し、カウンターの奥の扉へ消えた。

あとはもう、受け取った金を奴のところへ持って行けば、東京湾に沈められることはない。
俺は胸を撫で下ろしながら、水割りを半分ほど飲み干した。
あの婆さん、なかなかいい酒を使っているじゃないか。

「だろ? あたしはね、バーボンにはこだわってるんだよ」

次の瞬間、扉から出てきたゆり婆が、俺の頭の中を覗いたかのように言った。
「な、何で俺の考えてることがわかったんだよ」
「長年この商売をやってりゃ、酒に口をつけた客がどう思ったかぐらい、顔を見ただけでわかるさ」
なんだ、そういうことか。

俺の反応に満足したのか、ゆり婆は鼻で笑い、金が入った封筒を差し出した。
念のために数えてみると、確かに万札が100枚。
「ありがとな、婆さん」
「どういたしまして。あんたに幸運があるといいけどね」
その意味深な言葉を聞き流し、俺は残りの水割りを一気にあおってから、何も言わずに店を出た。

◇◆◇

それにしても、悪友の話は本当だったな。
金が入った封筒をポケットに入れ、最寄り駅へと歩きながら、俺は笑いが止まらなかった。
何が、最も肝心な記憶を買うだよ。できもしないことを言いやがって。
あとは、この金を……。

そこまで考え、俺はふと立ち止まった。
あとは、この金をどうするんだ?

何かの目的のために、俺はこの金をもらいに行ったはずだ。
金をどうにかしなければ、大変なことになるというのは覚えている。
でも、どうするのかが思い出せないのだ。

俺は思わず座り込み、両手で頭をぐしゃぐしゃと掻いた。
この金をどうするんだ?
この金を、どうしなければならないんだ?

最も肝心な記憶。
この金を使って、しなければならなかったこと。
駄目だ、駄目だ。どうしても思い出せない!

「だろ? あたしはね、バーボンにはこだわってるんだよ」

混乱した頭の中に、ゆり婆の声がいつまでも響いていた。

―了―


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