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秋の始まりに。

ある日、突然、大切なものを失ってしまった人のために、私は何をできるのだろう……。

私の属するコミュニティで、その中心軸のような存在を突然欠き、5カ月間、何かしたい気持ちと、何もできないもどかしさと、でも毎日続く現実を回していかなければならない切迫感と、日常が回るようになって大切な存在がいないことに慣れつつある現状、戸惑いとやるせなさとで、なんとも心にぽっかり穴が空いたようだった。
見えないものを信じたい気持ちで、その人を思い、旅先で訪れた先に神社があれば祈り、七夕の時には短冊を結んだ。接点をもてず何も状況がわからない日々のなかで、その人に関する情報がもたらされるたびに、一喜一憂した。

混乱の真っ只中にある時に、大学院時代に知り合った研究仲間が「グリーフケア」に取り組んでいることを思い出し、私たちがとるべき行動指針について教えを乞い願った。

励ましや激励、気休めの同意、回復の早さをほめる、前進することを勧める、立ち直れない事の指摘、大きな決断を迫る、自分の気持ちを優先する、死の意味を自分勝手に押し付ける、喪の行事や方法を押し付ける ことはよくないとされています。
(中略)
グリーフケアにおいて大きな決断は本人に任せることが大切になります。
(中略)
周囲ができるのは、見えるところに手を伸ばしておくこととも言われています。気にかけていることを伝えるのは大事だといいます。

友人Tさんの言葉より一部抜粋

「人間は心を回復させる力がある」という彼女のアドバイスを受け、グリーフケアについてのサイトを読み込み、悲しみのなかにある人とつながることのできる人に窓口を託し、「信じて待つ」ことに決めた。

その間、私のできることをしようと、突如相棒を失い一人でその居場所を切り盛りする人の負担を軽減するための具体策に動き出した。まずは身近なところにいるその人を支えることで、今はつながることのできない大切な相手を支えることにもつながるはずだ、と信じて。

深い喪失にあると想像される相手の心身の負担を考慮し、仲間たちがメッセージを送ることを止め、窓口を務めてくれた人が、やさしく、誠実に、適度に「keep in touch」を続けてくれた。それでも、状態によって伝えたメッセージの受け取り方が変わることもあり、グリーフの只中のコミュニケーションの困難があったことは想像に難くない。

淡々と日常が進み、その間、季節は移り、子どもたちは成長し、新たな仲間を得て、組織は変化し進化しながら、日々が回っていった。

そして、その日は、突然訪れた。
暑い暑い夏の真っ盛り、暦を1枚めくる頃。
LINEの文章から推し量る、寄せて引くような心のひだを読み解く日々が、動き出した。「大きな決断」がなされて、ある一定の線を引かなければならなくなった時。これまでつないできた関わり方を維持できなくなる、その決断に、心が揺らいだ。毎日のように顔を合わせていた人と、突然会えなくなったまま、頼みの綱が遮断されるのか……。
相手の心情を慮りすぎて、メッセージ一つ届けられなかった無力さに、もう少し早くなんとかしていれば、動いていれば、無理にでも会いに行けば、状況を変えられたかもしれないのに。私はそんな立場でもないけれど、そんな権限もないけれども……後悔が襲った。
一方で、具体的手続きのタイムリミットは刻一刻と迫り、現実を進めていくう役割を引き受けてくれた人たちは、難しいことに誠実に取り組んでくれていた。

しかし、その「決断」が何かのきっかけになったのかもしれない。
文字でのコミュニケーションから前進し、会話を交わすことが、突如、できるようになったのだ。全面的に窓口を担ってくれた人は、少し興奮気味でそのことを報告してくれた。そこから、とんとん拍子に再会の運びになった。そして、私はその再会の場に同席することになった。

駅で待っていたのはまぎれもなく大切に思っていた相手であり、最後に会った5カ月前と変わらぬ姿で立っていた。プライベートで会うのは初めてで、どこか照れくさく、なんて挨拶したらいいのかわからなかったけれど、「ひさしぶり!」だったのか、なんなのか、とにかく肩をたたいて、喜んでいいのかどうかわからないのだけど、とにかくうれしかった。

再会の場で、長年にわたる信頼関係を築いてきていた窓口の二人との、穏やかで温かい会話を見ていた。ふつふつと、幸せな気持ちが満ちてきた。その時に、つい口に出た言葉。「あなたの大切な居場所に行ってみませんか」

久しぶりにここに来ただけですごいことなのに、さらに一歩、同じ足で、居場所に行ってもらうことに躊躇はあったけれど、その人は自分が最も大切にしてきた存在と場所に行くことにためらいはなかった。やさしい喫茶店から10分ほどの道。先を歩く人たちが一歩一歩、歩みを進めていく、その足取りの確さを、後ろ姿から実感した。

外で遊んでいた小さな人たちとの再会は、彼らにとっても突然で、泣きそうになりながら近づく人、脇目も振らずに走ってくる人、素直に喜びを表す人、十人十色の反応だった。その場にあったのは、「奇跡を信じたい」と願ったあの日から、ずっと見続けてきた情景だった。

時計が動き出した、と思った。
この居場所で止まることなく進んできた時計と、その人の動き出した時計が、重なる日は近いかもしれない、と予感した。
区切りをつけることは、必要なステップだった。その区切りがあるからこそ、新たに動き出せる。何かを変えていくために必要なことなのだ、と確信できた。

翌週に、その居場所に関わる、大人も子どもも含めたほとんどの人たちがその場に集まる機会があった。突然時計が止まったあの日以来のこと。その人は、そこに来ることを決めた。
私自身がその人のことをたくさん思っていたのと同じように、小さな人だけでない、多くの人の祈りと願いが交錯していたような時間が、積み重なっていた。そんな思いの重なる場は、どう考えても重く、ようやく一歩踏み出したその人にとっては、プレッシャーがないわけがなく、到着するまでもさまざまな困難と逡巡があったことだろう。

でも、いろんなものを乗り越えて、その人は来てくれた。
扉をあけて、そこにいたみんなが言った。
「おかえり!」
と。

これからも、新しい日々は続いていく。
小さな人たちは毎日ちょっとずつ大きくなっていく。
失われたものは戻らない。でも、失っただけではない。
届けられなかった思いも、それ自体がなかったわけではない。その人を思う、大きな人、小さな人たち、たくさんの思いがあったからこそ、再会の日につなぐことができた。

たまたま、再生と再会の現場に居合わせることができた、この経験は、私の人生にとって、かなり大きなことだった。
「信じて待つ」が揺らいだ日々も、「見えないものを信じたい」という気持ちを保ち続け、直接思いを届けることも憚られた期間にも、思いをつないだこと。
その人の再生と再会を祈った日々から、新たな時計が動き出し、新たな物語を見つめるフェーズへと私の時計も変わっていった。

コミュニティという「大きな家族」のなかで、一人ひとりが役割を持ち、互いに助け合い補い合いながら、組織や居場所という生命体を生かし続けてきた。ドラマチックなことだけでない、目に見えない部分で、日々を動かしてきた人たちがとても尊い。
この地で連綿と続く、居場所をつくり続けてきた先人たちの通奏低音に、私たちの音がのって流れているのを感じる。
この時期を一緒に過ごした、大切な仲間たちへの敬意を込めて、忘れないうちに、今の気持ちを書き残しておく。


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