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カブトガニの青い血

アメリカカブトガニ(Limulus polyphemus)は、毎年春になると何10万匹もが産卵のためにアメリカ東海岸の砂浜へと上陸します。メスは約5000個の小さな卵が集まってできたゴルフボール大の卵塊を砂浜に産み落とし、そこへ一緒にやってきたオスが精子を吹きかけて受精させます。これらの卵には腹を空かせた渡り鳥たちがよく群がりますが、一方で製薬会社の面々は「青い血」を得るために砂浜に上がったカブトガニを採取します。アメリカでは毎年およそ50万匹のカブトガニが採取され、施設内に運び、心臓付近の血管から血を抜いたのち海に返します。カブトガニの採血にはかなりの作業時間がかかりますが、得られた血液は非常な高値がつき、血液1ガロン(約3.8リットル)あたり6万ドル(約810万円、2022年7月現在)になります。

1956年、アメリカの医学研究者であったフレッドバング(Fred Bang、1916〜1981)は、カブトガニの血の奇妙な特性に気づきました。なんとカブトガニの血は、エンドトキシン(内毒素:細菌内に含まれる毒素のこと)と反応すると、血球であるアメボサイト(変形細胞)が凝固して塊になるのです。エンドトキシン(内毒素)は、医薬品や医療機器に付着し人体に入ると発熱や敗血症性ショックを引き起こす恐れがあります。そのため注射器ペースメーカー人工股関節といった滅菌医療機器に対しては、内毒素による汚染がないかどうか厳重にチェックしなければなりません。その検出能力を太古の昔から存在するカブトガニが持っていたのです。今のところ内毒素を検出できる天然資源はカブトガニの血液だけだと言われています。その後フレッドバングの発見を引き継いだ研究者らはアメボサイトの溶解物を医薬品の汚染検査に応用する物質を開発し、これを「ライセート試薬(LAL、リムルス変形細胞溶解物)」と命名しました。1977年にはアメリカ食品医薬品局(FDA)によりライセート試薬の正式な使用が認可されています。

以来カブトガニの血液は私たちの健康を陰ながら支える役目を担ってきましたが、近年ある問題が懸念され始めています。それがカブトガニの減少です。先述したように採血したカブトガニは殺すことなく海に返し、またその過程で死亡する個体もわずか3%と目されていました。ところがその予想値は事実とかなり違うことが分かってきたのです。ライセート試薬の誕生から1990年代まで、その生産工程は持続可能なものと考えられていました。個体数調査でもカブトガニはありあまるほど存在し生物学者や保護活動家もこの種の保護にあまり重きを置いていなかったのです。

ところが2000年に入りカブトガニの個体数が明確に減っていることが明らかになってきました。1990年には大西洋岸にて毎年約124万匹のアメリカカブトガニが産卵していると推計されていたのですが、2002年以降その数は約33万匹まで減少していたのです。また2010年の研究では採血後のカブトガニのおよそ30%が死んでいるという結果が出ました。これは当初の予想値の約10倍です。さらに温暖化や生息地の減少、乱獲によりカブトガニの数はどんどん減っており遂にはアメリカやアジアで「絶滅懸念種」に指定され始めています。今現在は、まだカブトガニの血に頼る他ありませんが彼らを絶滅させてしまう前に代替薬の開発を急がなければなりません。

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