2023年9月24日

 配属されて初めて、仕事を休んでしまいました。
仕事くらいはせめてしっかりとこなそうと思っていたのに、がんばりきれなかった。薄暗く、散らかった部屋で目覚めて、重く痛くままならない身体に絶望しながらちょこちょこと指を動かして休みの連絡をいれました。カーテンの隙間から射しこむ朝陽への、せめてもの顔向けとして部屋を片付け、シャワーを浴びて、泥のように眠って起きたら、責めるように爽やかな太陽はようやく沈んで暗くなっていました。

 単身上洛して3か月が経ち、一般的には、さまざまなことが「落ち着いてきた」と言うのでしょうか。生活は望むと望まざるとにかかわらず、すでにこの京都に根ざしているというのに、こころは常にふわふわと、安らげる居所をさがしているように思います。
 職場の人はみな、良い人たちです。少なくとも意地悪をしてくる人は誰もいないし、しょっちゅうつまらないミスをするわたしを助け、育てようとしてくれます。やるべきことをきちんとこなせない上に、笑顔を心がけていてもなお、不調が表に出やすく、気を遣わせてしまっているので、決してみなさまに好かれているとは言えないけれど、それでも理性的に考えたら、つらいことなどないはずです。みんなができることが自分にはとても難しいのも、最初からわかっていたはずで、それでも仕事に打ち込めば、日々生きていけるのですから。
 なのに毎日、毎秒、心が薄く剥かれるような孤独に苛まれます。天地がひっくり返るような眩暈がして、頭がひどく痛みます。
単純にさみしいのかもしれません。まともに会話ができる人間が、職場の人か、ネイルのお姉さんか、近所のバーのお兄さんしかいないのです。
一緒にいて心から笑うことのできる数少ない他者はみな東京にいて、それぞれの生活を一生懸命がんばっています。
東京にいたころも、根無し草のような空虚と悲しみを常に感じていたし、それを人に話すことは、泥酔しないとできませんでした。わたしは自分のつらさを、人に打ち明けることが、どうにもおそろしく、できないのです。ひとりでもんどりうって、どうにもならなくなって、時折馬鹿みたいな量の酒を飲み、嘔吐のように吐き出すことしか、できないのです。
それも十分最悪で、翌朝二日酔いの頭痛とともに死ぬほど後悔するのですが、ありがたいことに愛するひとたちは、いつも許してくれていました。
愛するひとたちが近くにいたときは、一緒にいるだけで、苦しさ忘れることができました。それはまるでひかりのようで、たとえ苦しみを打ち明けることができなくても、その時間があれば、なんでもないや、とすこしだけ思うことができたのです。会っていなくても、彼らといつでも会うことができるから、まだ大丈夫だと、思えました。
でもいまは、そのぬくもりも、ひかりも、遠いものになってしまいました。

愛するひとたちはなにも変わらないのです。
きっと、電話をすれば、いろんな話を聞かせてくれて、わたしの話も聞いてくれるでしょう。
でもわたしは、久しぶりの会話で、嫌な話をしたくありません。相手の大切な時間を使って、気を遣わせたくありません。わたしとの時間が、愛する人たちにとって楽しいものであってほしいのです。いやな時間を、忘れられるひとときであってほしいのです。同じように、ひかりでありたいのです。
物理的な距離がこれほど隔絶をもたらすと、思っていませんでした。

お付き合いしてまだ日が浅い恋人にも、すでに心配をかけてしまっています。
わたしはそれが、怖くてたまりません。
ほんとうは、泣きついて、縋り付いてしまいたいのですが、はじめは柔らかく受け入れてくれていたとしても、だんだんとそれが重荷になって、いつかいなくなってしまうだろうと、思ってしまうからです。
そうなると、不安で不安で壊れそうになります。全てにおいて疑心暗鬼になって、さらに心が塞ぎ、呼吸が浅くなります。狂おしい妄想ばかりに、取り憑かれます。
わたしは、いろいろなものに期待せず、諦めている代わりに、いちど大切に抱きしめたものが、なくなってしまうのがおそろしくて仕方ないのです。それが、耐えられないほど苦しいのです。
一緒にいる時間が楽しく、幸せであればあるほど、その影が忍び寄ってくるように思います。
わたしは弱い人間だからこそ、大切なものに、絶対に依存したくありません。
たとえ依存してしまったとしても、それを絶対に、相手に気取られることは、あってはならないのです。
恋人にとって、常に愛おしく輝いて、癒しを与える人間でありたい。いやなことがあったとき、悲しいことがあったとき、いちばんに話したくなる人間でありたい。楽しくて、永遠を願ってしまうような時間を贈りたい。今のわたしに、それができるのでしょうか。
強く気高く美しく、生きていたい。ままならないけれど、そう思います。

ここまで書いてきて、自分の矮小さに再び絶望しました。どうしてわたしは、こんなに狭い世界でしか、生きていけないのでしょうか。
函館の暗い海をずっと眺めていたとき、賢くなりたいと思ったことを思い出しました。 
無心に勉強をすれば、薄氷を歩くようなこの恐ろしさも少しは緩んで、広い世界に目を開くことができるのではないかと思います。
知性は人生を導くひかりだと、ゲーテのようなことを考え、まだ手に入れないひかりに縋ろうとしている自分がいます。
たとえば、遠い国のよくわからない言葉とか、膨大で精密な法律とか、気が遠くなるほど折り重なった歴史は、わたしをここから救い出してくれるような、そんな気がするのです。

混濁した意識の最中、狂気と冷静の境を行きつ戻りつして書いた文章を、読み返す気にはなれませんが、明日のわたし、明後日を生きていくために、どうかがんばって、仕事に出かけてください。柔らかすぎるこころには、昆虫のような硬質な殻を纏わせて、どうか守ってあげてください。今日のわたしはそれができなかったけれど、強く、気高く、美しく、生きていって。

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