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なんか続いていくなにか

大学の卒業が近づいている。デカい手違いや勘違いなどがなければ無事に卒業できると思う、多分……。

なんとなく、このタイミングになれば人生に大きな区切りができて何かが変わっていくのだろうとずっと思っていた。例えるならアニメで第一クールが終わった時の特殊エンディングみたいな。それで次の回からは急にシリアス展開になったりするのだ。そんな転換点をヘタしたら10年以上信じて生き続けてきた。
でも、そういう著しい変化というのは驚くほどに起こらない。ものすごくぬるっとしている。
それは創作活動についても同じで、「いつか自分が何か大きなものをつくるのだろう」とぼんやり思っていた。しかし当然ながら自分が手を動かさなければゲームは完成しないしMVも投稿されない。それは大学卒業のタイミングになっても揺るぎない事実であった。

話は逸れるが、ここ一年は、自分が作品に対してとやかく言われるのがとことん嫌いな人間なんだなというのを痛感した時期だった。それは僕がナイーブな方だからというのももちろんあるのだが、極論、僕は自分が良いと思う作品をつくって、それが好みに合う人に刺さってくれればそれで満足だからというのもある。
つまり、他人の意見を受けて変えていくということにあんまり関心がないのだ(最近は独学での作曲に限界を感じてたり、Unityは全然使いこなせてなかったりするし、技術的な部分で学びが欲しい時は大いにあるが)。とにかく自分の頭の中のものを形にすることそれ自体に楽しさを感じているのだろう。

僕が好きな音楽に『イワシがつちからはえてくるんだ』というのがある。これはすごく評価を集めている作品ではあるのだけど、良い意味ですごく独り善がりなところが良いと思う。構成要素の全てがどことなく内側に向いている気がする。
この作品に限らず、2010年前後のニコニコ動画の文化の中には、良くも悪くも他意のない純粋な精神のもと作られたようなものが多いと思う。MAD文化などはその代表例だろう。

それは誤解を恐れず言えば「お金の匂いがしない」ということかもしれない。正直、今大流行している『パルワールド』なんかはお金の匂いだけで構成された、資本主義が産んだ怪物のような気がして苦手だ。デザインで「これ〇〇のパクリだろw」と言わせることすら配信で話題にしてもらうための戦略であるような。開発したのはどちらかと言えばインディーズ寄りの所だが、インディーズゲームの大きな魅力であるところの「作家性」のようなものは、大手メーカーがつくる作品に及んでいないと思う。

しかし、全ての「ウケていて、お金を稼いでいる作品」が「自分が良くないと感じる作品」ではないことは間違いないし、それは救いだと思う。実際、ウケているものは触れてみると良いもののことが多い。それでも、すごく良いのにウケてないものもあるのが悲しいところではあるのだが。

こんなことを憂いていても仕方がない。結局、ゲームや音楽をつくる以上は「ウケ」が支配するインターネットでやっていかなくてはならないのだ。結局は、大きな場面転換もない中で、その中で自分が良いと思うものを黙々と追求していくしかないのだろう。

今まで書いたようなことを延々と考えていると星野源さんのエッセイのタイトル『そして、生活はつづく』を思い出す。『Continues』という曲も思い出す。僕は、学生生活が終わるのを一つのエンディングみたいなものだ(そして、マルチエンディングのうちのバッドエンドルートを引いた)と思っていた。しかしそのタイミングになってもエンドロールは流れることはない。分かりきっていたことだが、むしろ、運が良ければ人生はここからの方が長い。そして、生活していかなければいけない。
最近、今まであまり触れてこなかったゲームをやる機会が多い。ひなビタ♪という音楽プロジェクトをきっかけに『ポップンミュージック』をやってみたり、友人に誘われて『デュエルマスターズ』で対戦したりしている。エンディングはないがもう少し続けてみようと思う。

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