Flash back 身体の弱さ

一年前に膵炎になって以降、周りから
『アンタは身体が弱かったんやね』
という評価を聞くようになった。
間違いではないのだが、それを知っていた上でお酒を飲んでいたのは自分である。
"身体が弱い"というのが言い訳のようで、それに甘えてしまって良いのかわからないが、どうせだからその事について振り返ろうと思う。

身体弱々エピソード

僕は兵庫県の六甲道で産声を上げた。
生まれた頃からアレルギー体質で食べられないものが多かった。
幼稚園へ入る前に通っていたスポーツスクールY.M.C.A.では休憩時間に皆牛乳を飲む習慣があるのだが、その時にアレルギーで乳製品が飲めない僕は代わりに豆乳を飲んでいた。
周りの皆が当たり前に口にしているものを、自分だけが取り上げられているようでそれなりにストレスを感じていた。
またアレルギー性の皮膚炎でもあり、アトピーとも診断されており肌は酷く荒れていた。
今でもあまり変わらないのだが、その頃から薬が手放せない子供だった。
母は当時の僕を世話していたことを
『ノイローゼになりそうだった』
と振り返っており、もしかすると今の奇行はその頃から続くそれ(ノイローゼ)なのではないかと思ったりもする。

また悪いのは呼吸器も同じで喘息を患っていた。
体調が悪くなればすぐに喘息の発作が出ており、睡眠時などは呼吸の音がうるさいとANIに怒られたりしていた。

大人になったら

それらの症状は大人になれば改善されると言われており、年と共に食べられるものは増えていった。
アトピーは相変わらず続いていたので皮膚科へは月一くらいの頻度で通い続けていたが、喘息の発作の回数は減っていった。
(その頃に喘息の発作用の吸引機が手に入り、それがお守りのような役割を果たし、持っていると安心感で発作が出にくくなっていたのではないかと思う。)

そうやって年と共に持病が減っていったが、鼻炎や偏頭痛などの新しい病気を患うようになり、結局のところ体調は基本的に悪い子供だった。
そういう自覚が自分の中でもあり、たまの体調の良い日なんかは
『毎日このコンディションが続けば、もっと人生が上手くいく気がする』
と思っていた。

そんなひ弱な奴でも生き続けていれば大人になり、就職した先は祖父の跡を継いで船員になった。
僕より先に祖父の跡を継いでいたANIは、僕が入社したその晩に僕へ向かって
『お前身体弱いねんからこの仕事向いてへんぞ。船乗りになるなや』
と告げていた。
そんな感じで、幸先が悪いものの"テツジ 船員編"はスタートしたわけである。

船員編

この頃になると持病と呼べるのはアトピーくらいに減っていた。
船員生活の中で肌荒れと戦うシーンはあったものの、
『そんなもんだ』
くらいに思って保湿剤を塗る日々を送っていた。
また、船という男社会の中で
『自分アレルギーで鯖が食べられません』
などと発言すると
『情けねぇなぁ』
などと馬鹿にされることがあり、いつしか根性論で体の弱さを克服しようと試みるようになった。

そして5年。そして10年。
月日は経ち、肌トラブルとの縁こそ切れなかったが、自分の身体が弱い事など忘れてしまった。
たまにTVで精神的な病を盾に胸を張っている人を見ると、鼻でわらうようにすらなっていた。
そういった中で豪快を意識して飲酒の量は増えていき、体への負担はいよいよな所まで到達したのだろう。
膨らみ続けた風船が爆発するかのように、一年前のある日膵臓が消失したわけである。

膵炎 48日後…

膵炎が発症した頃になると回りの身内の数は減っていた。
父はとうの昔に先立ち、近年のウチに祖父母は他界し、ANIは会社を去っていた。母とは村八分の付き合いだった。
もはや自分の事は自分しかわからないのだが、内臓を壊したその時ですら自分の身体が弱い事など忘れていた。
その後2度目の膵炎を起こした今になってやっとその(自分の身体が弱い)事を思い出したわけである。
"ご自愛下さい"とはよく云ったもので、自分の身体は自分で愛してあげなくてはいけないと今更思う。

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