自分仮面

自分がやりたいことはなんだろうか。

将来という壁にぶち当たる学生時代、何度も自問自答し続けることになる。

あなたはどんな人ですか?
面接官が私に問う。

私は、優しい人、良い人と言われることが多いです。周りの友人も心温かくて

貼り付けた笑顔でスラスラと答える。

相手の求める態度を取ること
無理矢理笑顔を作ること
怒りを抑え込むことは

そんなことはもう、苦しくない。

どんな時も、自分の感情を押さえつけることで生きてきた。
今までだってずっとそうだ。
多分これからもきっとそう。

心無い発言をされた時、その人間と関わる機会を減らして対処した。

行きたくない誘いも、「何か学びがあるかも」と自分の感情を騙し続けた。

企業面接に落ちても良いように、質問では必ず関係のない事を聞いた。オススメのお店を聞き、その情報のために自分は行った、と嘘をつけるようにした。

自分自身と向き合うことから逃げ、ただひたすらに、傷つかない方法だけを考え続けている。

どうなりたいか 

なんて、もう考えるのはやめた。自分は空っぽで、ただ攻撃されないために、他人を騙し、自分を騙し生きている。

どうしたいかと聞かれれば、どうもしたくない。
誰もいない世界、攻撃のされない世界、何者でなくても、空っぽでも許される。ただいるだけで、良い世界。
そんな世界に旅立ちのかもしれない。

私は、人のことを本気で好きになることが出来ない。

推し活、恋愛。そう言った、相手に夢中になることがない。

誰のことも信用しているようで、誰のことも信用していない。

自分を信用してくれる友人は、「作り出した自分」を好んでいる。

本当の自分を見せようと思えない。そもそも、本当の自分がどこに存在しているのか、もう自分でもわからない。

本当の自分が確かに存在していたのは、いつだったか、もう分からない。小学生だろうか、中学生だろうか。

偽りの自分が生まれ、育ち、いつしか真の自分は姿を消してしまったように感じる。

誰かのことを好ましく感じても
「それは相手への期待や押し付けで作り出した虚像である」
「本当の自分が存在していない空っぽの人間は、関わり合っても面白みがない。いてもいなくても同じ」
そんな考えが脳裏をよぎる。
初めの気持ちは気づけば理論武装に言い負かされ、一瞬でどこかへと消える。

私には、エゴがない。自我もない。
何かを頼まれたら、断るという選択肢がない。
どう相手を不機嫌にさせないか、だけが第一順位として存在する。

やりたいこと も、承認欲求から現れる。
でもそれは、相手からの印象が良くなる からやるだけだ。

他者からうつる自分の為にしか出来ない。
自分のためだけにやりたいことなんて、何もない。

こんな感情を誰かに尋ねたところでどうなるだろうか。

私にすら見えていない、人格の親玉は、他人から見えるのだろうか。

たかが、作り出した仮面に「良い人」「優しい」「ありがとう」と、本気で言えてしまう他人に、私の何が分かるのだろうか。

私の家族に、私の何が分かるのだろうか。

お前はそういう性格だから、と姉は良く言う。

人前で猫を被り、家族にその感情を強くぶつけることが多い、そんな彼女を疎ましく思っていた。

ただ不機嫌を吐き出すだけで、行動を起こさない。永遠に停滞して、他の家族の気分を暗くするだけ。
そして、母も全く同じ人間だ。2人はよく言い争っている。

そんな不毛な争いを見ていると、結局人間は自分自身の中から答えを見つけるしかないのではないかと思ってしまう。

本当の自分が存在しなくて、もう他者のために頑張ることに疲れ切っていて、でも疲れているかどうかもよく分からなくて、空っぽなまま、そんな気持ちを打ち明けられないまま、

打ち明けることは意味がない、自分で見つけるしかない、でも自分には分からないからどうしようもない。と、詰んでいる。

家族に弱音を吐いても、私が弱音を聞かせた分、今度は家族の弱音を聞く羽目になるのだ。タダで聞くことすら疎ましい愚痴を、余計に聞かされる。もう関わることが面倒くさい。自分の本心や感情を伝えることが面倒くさい。

恋人にはどうか。
結局、相手から好かれているから付き合っている恋人。
自分が相手のことを好きかどうかも、もうよく分からない恋人。
相手のために作った仮面を愛してくれるから一緒にいる恋人。
仮に別れを告げ出されたら、1日で納得できてしまう恋人。
社会人になりたての彼女の負担になりたくないから、先延ばしにしている恋人。

恋人がいることで自己肯定感がー
1人で行くには少し勿体無いイベントがー
自分は知らないお店を知ることがー

理由でしかない。かんじょうでいっしょにいたいか、なんてもう分からない。

恋人とはきっともう少しで別れるだろうが、まぁ幸せには生きてほしい。いずれ空っぽな自分に気づいて失望されることは目に見えていたし。

友人にはどうか。結局同じだ。
話したって何も解決しないのだ。

そもそも、私の人間性に生じて、再起不可能になってしまったバグを、私というハードウェアを見たこともない人間に修理を依頼する という行為自体、意味がわからない。
他者に救いを求めて何になるのか。

仮に救われたら、私はもう周りに救いを求め続ける人間になるだろう。

他者から救われることでしか解決できず、幸福も感じられない。

そうなってしまったら、異性から求められることでしか自分の存在意義を見出せない、自分が最も苦手な人種と、いったい何が違うのだろうか。

いや、そんなことはない。

愛されたい というエゴがあって、従って生きている。彼ら彼女らの方がよっぽど人間らしい。

人間らしい。

私が、人間でいる価値はあるだろうか。
最も簡単に代替できる人間だろう。

意味なんてない。

私がいなくて悲しむ人なんて、お気に入りの仮面人形がいなくなって悲しんでいるだけなのだ。

そもそも、元から存在していない。
私と言う存在は無いに等しいのだから。

それにしても、こんな画面人間に、たくさんの時間やお金や愛情や、人生を割いてくれる周りの人々には、本当に感謝しても仕切れない。最大限のお礼が言いたくて仕方がない。

ありがとう、心から。お礼に、もっとあなたが心地よく過ごせるように、仮面を付け替えるね。

うーん、それも違うか。
もう十分礼に値する仮面人形では居た気がするな。

それにしても、春は良い季節だな。出会いと別れで、たくさんのドラマが見える。

そんな人間関係の席替えの騒ぎに乗じて、私もどこかへ消えてみようか、と思う。

携帯電話を海に投げ捨てようか。
でも、住む場所も空っぽを紛らわす道具も何もなくなるな。どうしようか。

やっぱり、全てを断ち切って、終わらせるのが正しいのだろうか。

もう、疲れた。生きているだけでも申し訳ない。
環境に恵まれながら、自我が消失して、他人にあわせることしか出来ない。

ただ、疲れた。しんどい。そんな感情だけがここにある。

この気持ちだけは、私の本体が放っているのか。いや、ただの人形の悲鳴か。

手詰まりだ。この国に安楽死が導入されていたら、気軽に選んでしまうぐらい、もう手詰まりだ。

偽りの人生、感情もどこか他人事で、離れていく。何が楽しいのか。何が幸せなのか。
空っぽだから何もない。自分とは合わない価値観に流され続ける。
そもそも、自分の価値観がないのだから、それもまたしょうがない。

ないのだ、何も。

人の視線で作り出された、偽物なんだから。

意味のない文章を3000文字も綴ってしまった。
こんな世界に己の分析を吐露するのは、まだ外界に救いを求めているだろうか。全くうんざりする。

友人たち、周りの人たちはさぞかし楽しそうで良かった。

私には、そんな「人間味のある心からの幸福」なんて、永遠に感じることはできないのだから。

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