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やっぱり俺は世界を滅ぼしたい

急な焦燥感にかられたままシンガーズハイのライブを見に行ったら、余計焦りが身体中を駆け巡っている。試合が始まる直前の緊張感がずっと続いている感じ。でも、同行者の後輩に、ライブが始まるまでの間、ひたすらどうやって世界を滅ぼすかについて語っていたら、分かったことがある。

まず、物理的に地球を滅ぼすなんてことは無理なことには気づいている。じゃあどうすればいいのかというと、たぶん、人の心を壊したいんだと思う。あ、なんかこういう風に言うとめちゃくちゃ酷いやつみたいになってしまうけど、人の心を震わせた挙げ句放心状態、みたいなあれ。ライブの一音目でぎゅっと心臓を掴まれて低温が響くような、あれ。もっと言うと、たぶん人のことが嫌いなくせに人に忘れられたくなくて、どうしようもないんだとも、思う。ぎゅっと心臓を掴んでくれたことって、忘れないじゃん? 誰かの心臓を掴めるような存在になって、そのまま握りつぶしてしまうような、そんなことがしたいのかもしれない。



我儘、と言う好きな曲がある。その曲の前にボーカルが、もっと愛されたいですと叫んだ。もっと愛されたいし、もっと人を愛したい、と。本当に叫んでいた。それを見て、そうだ、きっと愛されたいんだ、と思った。愛すとか愛されるとか、そんなの意味わかんないけど、愛されたいのかもしれない。もっと言うなら死ぬほど愛してくれればいいと思っている。まあそんな愛してもらうような点がないけれども。でも、ちょっと前にフォロワーが、愛されたいと思うのは自分にその価値があると思っているからだ(要約だし勝手に引用すみません)と呟いていたことが同時に脳裏によぎり、ああ自分には愛される価値があると心のどこかでは思っているのだなあ、なんて考えてしまった。いろいろ諦めたふりをしながら、なににも諦めがつかない。なんでもなんとか願いは叶うんじゃないかと甘ったれている。たとえなにか突出した点がなくても愛してほしいなんていうのは、我儘だ。いつも、足りない足りないと言いつつ、見てほしい部分は当然足りなさじゃなくて、今残っている部分であって、そこを愛してほしくて、別に足りなさを愛してほしいんじゃない。足りないところまで愛してほしい、というのはあるかもしれないけれど、それでもメインで愛してほしいのは自分の、本当の自分として残っている部分でしょう。おそらく自分自身もその今残存しているところに目を向けなくてはいけないのだと、我儘をみんなで一緒に歌いながら、奥歯の方で噛みしめながら思った。今の自分、何が残っているのか、そして、それは、愛してもらえるに値するものなのだろうか、なんて思ったりする。



試合の前のような緊張感が続いているのは、きっといつまで経っても試合が始まらないからだ。ちゃんと試合を始めないといけない、というようなことを何度も言ってきて、でも何度も言うということは実現に至っていないということだ。でも考えてみると、剣道の試合なんかは当然審判の始め、という合図で始まるけれども、勝手に始まっていた人生なのだから、ぬるりと試合も始まるのかもしれない、なんて思う。気づいたら試合は中盤に差し掛かっていて、一本を決めるとか、決められるとか、重要な局面はいつの間にか来ているのかもしれない。でもこればかりは、勝手に試合が始まってくれるわけじゃないから、始めないといけない。結局、自分で始めないといけない。やりたいこと、やらなくちゃいけないことを精いっぱいやることなのかな、始めるっていうのは。きっと明日からも一生懸命できないで終わっていくのだろうけどね。やっぱり、脳みそだけで考えるのが悪いところなんだよな。動かないとなにも始まりません(自戒)。


なにかやらかさない限り、高校も卒業できることが決まって、新しい環境に飛び込んだら、またなにか変わるのかな。変わることを人任せにしてはいけないと分かっているけれど、今は自分だけでなにもできないから、環境が変わることを起因にできればいい。この春休みは、割と変わろうとしている。ちゃんと言語学習も続けているし、本は何日か読めてなかったけど、これから3週間ニュージーランド滞在という一大イベントも待っているので。口ばっかりって思ってる人たちに、ちゃんとできるってことを証明しないとな。そして、どうやったら世界を滅ぼせるのか、人の心をぶっ潰せるのかについて、もう一回ちゃんと考えたいと思う。阿呆だね。阿呆だよ。阿呆なりに頑張るよ。

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