見出し画像

空白と嘘

音楽、特に歌詞に救われることってあるけれど、もし、ある人がものすごく本心を込めて書いた歌詞にものすごく共感したとして、それって私が嫌っている安易な共感でしかないんだよなあ、ということを考えている。

こんなことを考えているのは、最近、音楽と絡めて自分のことを書こうとしているからだと思う。(sizu.me/tear) この曲のこの歌詞に共感した、この歌詞が刺さった、というものはわりとあるけれど、それを言葉にしようとすることは、ただの自己満足であり二次創作のようなものだ、と思ってしまう。いやまあそれはそれで間違いないとして、「共感」という言葉を使うことの重さを、理解できていないことからくる違和感、みたいなものがあるんだろうな。中途半端に理解した気になるなら、いっそ分からないでくれ、なんて思ってしまう自分の思考、あと単純に、誰かに理解されてたまるかという、謎の自負心のようなものがあるんだと、思う。

誰かに理解されてたまるかという思考は、他の人とは違う、と主張しているようなものだ。お前には理解できるわけないと、突き放したいという願望。

でも同時に、理解してほしいと心の底から望んでいる自分もいるわけで、ああ、あまりにもあまのじゃくで困っちゃうな。




Agust Dというラッパーが好きだ。"The last"という曲で、彼は自分の過去を歌詞にしているけれども、その中に、感銘を受けた言葉がある。歌詞が韓国語なので訳すと、「誰が俺ほどやれるんだよ」という文だ。辛い過去を並べた歌詞の最後に、誰が俺ほどやれるんだよ、俺はもう大丈夫、と叫ぶ。そこに到達するまでの努力、自信、そういうものを表しているようなその声が本当に好きで、私もいつか、誰が俺ほどやれるんだよって言いたい、と思った。

その人の本当のバックグラウンド、そういうものの全てを知らずに、歌詞という表面的なものだけで、共感するとか口にすることは簡単で、だから私はAgust Dの歌詞に「共感して感動しました」ということが非常に簡単にできる。辛かったよね、という同情だって、簡単だ。ああ、同情、同情かもしれない。私は同情なんかをされたくないのかもしれない。安易な共感って、たぶん同情だ。同情されたら、お前に分かってたまるか、と思う。共感が同情になってしまう瞬間、他人に簡単に同情してしまうことを恐れている。



人と適当に関わるたびに、安易な共感、安易な同情は増えていく。でも、誰かに適当になだめられたくないんだったら、自分で自分に言いたいことを言ってあげるしかないじゃないか、と思う。自分自身を信じるとか、そういう言葉が嫌いだったけれど、その意味が少し分かった気がした。最終決定権は恵まれたことにほとんど自分に帰属しており、起きる時間寝る時間日中の時間の使い方さらには死ぬタイミングまできっと自分で決められる。自分の人生って、自分が結構関わってるんだなーということに今更気づき、へえ、おもしろいじゃん、となっている。でも結局みんな敵なわけさ。敵。全員敵。全員敵だから自分を信じるしかないし、もう自分しか残ってない。そんな気がする。

なにがいいたかったんだろう。まあよく分かんないけど、柔軟性を持ちつつ、自分の信じるものは揺るがさないで生きていきたいよ。あと、自分の言葉でしゃべりたい。そんな風に今は思ってる。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?