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明治から大正の浜街道

田彦・市毛・堀口・枝川の連合役場が田彦にできたのは、明治5年でした。
それでもこの浜街道は、人通りがとても少なく大正年代に至るまで、時々追はぎが出たものです。お嫁入りの行列さえも、襲われたそうで恐ろしい所だったのです。このため「市毛の若者は、田彦から嫁をもらえない」「田彦の若者も市毛からもらえない」という慣わしが昭和に至るまで続いたものです。
そんな淋しい所だったので、昭和13年に水戸市三の丸にあった水戸刑務所の移転の話が出たとき、川田村と緑岡村は誘致のため張り合ったものです。刑務所ができれば、付属する官舎などもできて、この地が何とかなると考えたからです。結局川田村が誘置に成功し、完成移転をしたのは、昭和20年になってからでした。

「勝田昔がたり」昭和45年

昔の書籍から興味深い一節を見つけました。水戸少年刑務所は誘致したという話は聞いていましたが、こんな背景があったとは。

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