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水戸射爆撃場の歴史6

毎年多くの来園者が訪れる国営ひたち海浜公園をはじめとする常陸那珂地区は、戦後はアメリカ軍の水戸対地射爆撃場として、戦前は日本陸軍飛行学校として、江戸時代は千々乱風伝説が伝わる場所でした。
そんな歴史を紹介します。(勝田市史料Ⅴ 昭和57年1月発行から内容を再編しました)

本土決戦準備

 1945年に入ると、軍中央は本土決戦の準備を開始した。

勝田市域と本土決戦準備

 敵情判断は「敵は九十九里浜あるいは相模湾、状況により水戸平地に来攻するであろう」というにあった。水戸平地への来攻の場合、来攻正面は、久慈川河口より南、大貫より北の線と考えられた。特に上陸適地は磯崎・照沼間と想定された。米軍が関東地方に上陸作戦を敢行する場合、第一候補地九十九里浜、第二候補地相模湾についで、第三候補地は阿字ヶ浦から当時の水戸飛行場正面にかけての海岸、つまり当時の前渡村海岸であると想定された。
 この演習の作戦計画では、水戸平地に米軍が来攻した場合、沿岸配備師団は太田・石塚の線で米軍を位止し、結城・小山・古河周辺に控置された機動師団が真岡をへて瓜連方面に機動し、瓜連付近から勝田に向けて反攻を行うことになった。5月14日には「敵の上陸に際し破壊を予定する飛行場」のなかに「水戸東」「敵の上陸に際し海岸に近い飛行場で努めて長く確保すべきもの」のなかに「水戸北」が指定された。前渡の水戸飛行場が現在の那珂市への北飛行場建設にともなって「水戸東飛行場」と呼ばれるようになったとすれば、上陸正面にあたる飛行場を破壊することが考えられたといえよう。
 この作戦計画が実現されていたら、現在の勝田市域は米軍の前進を遅らせるための激戦場となったあげく、一旦は米軍の占領にゆだねられ、さらに日本軍の反攻正面とされて決戦場となり、再度の激戦場となる予定であった。住民は自分たちの郷土が激戦場とされ、日本軍に放棄される計画であることを知るよしもなかった。住民は、日本軍が自分たちと自分たちの土地を守ってくれるものと信じ、軍に協力し奉仕してきたのであった。
 8月に至って以上の計画は「九十九里浜方面を主決戦正面と予想するほぼ決定的な配備を採る方針」に変更した。降伏直前に決戦の方針が変更になったとはいえ、本土決戦準備の開始以来、勝田市域は本土防衛作戦上の重要地区とされてきたので、かなりの兵力が配備されていた。
…続く(戦後の射爆撃場の話になります)

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