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ひたちなか市に日立製作所が進出したとき

昔から勝田市は日製の町と言われていますが、工場群が立地している以外にも何か影響があったのか知りませんでした。すると茨城県史に具体的な内容が記載されていました。
当時の勝田市は歴史的に単なる田舎町でお金も施設もなかったことがよくわかりました。

三 日立製作所の進出と第二次大戦
昭和14年(1939)の夏、日立製作所は、勝田地区に「水戸工場」の建設を決定した。主体は製鋼工場で、最初は多賀町(日立市)の成沢に予定されたが、面積も広いうえ地価も安く、水戸市に隣接するという理由などから、けっきょく勝田への進出が決定された。水戸工場という名前も、将来水戸と勝田が合併するだろうという考えで命名されたものといわれている。
昭和14年といえば太平洋戦争の前夜であり、日本は戦争準備に猪突猛進していた。したがって、日立製作所の新工場建設計画にも軍部の意向が強く作用した。建設予定地の買収は1、2か月の間に完了せよというような本社の強い意向も軍部の圧力も無関係ではなかったであろう。
水戸工場建設予定地を含め、日立製作所がこのとき買収計両で示した土地而積は、勝田村、中野村、川田村の三か村にまたがっていた。総面積は100万坪あるいは150万坪ともいわれているが、実際に買収した面積は220万坪をこえた。この土地は現在の常磐線勝田駅を挟んで東西にのび、勝田地区の中心部を完全に掌握していた。
昭和14年11月には、臨時水戸工場建設事務所が設置され、用地買収に当たった。土地買収価格坪50銭(立木補償を合わせて1円位)という安さであった。『水戸工場二十年史』によると、当時、日立市会瀬地区付近で坪15、6円というのであるから、勝田の1円という価格水準がいかに安いものであったかを想像できよう。
そして、12月中には220万余坪の土地買収を完了するという超スピードで作業はすすめられた。それは前述のように、日立製作所の意気込みもさることながら、「国家非常事態」という軍部の圧力が背景にあったためともいえよう。しかし、その土地買収もまったくスムーズに運ばれたというものではなかった。土地を売り渡す農民の不安は拭いきれず、川田村の堀口部落の農民は「絶対不売」を主張して譲る気配をみせなかった。部落集会を開いてもなかなか話し合いは進展しなかった(水戸工場二十年史)。しかし、その抵抗も、軍需工場に関する特別法による土地収用権によって撃破された。軍の司令官に、部落におもむき非常事態を説明してもらうなどという案もでたが、結局、なかば強制的な買収の形に終った。
この不当ともいえる安い買収をめぐっては、戦後、問題が再燃した。町民の賠償要求に対して、会社側は当初は、地主に買収金を上積みをしてはどうかという案をだしたが、これは悪例になるとして、けっきょく勝田、中野、川田三か村の合併を前提とした地元への建物等の寄付ということで答えた。この合併がほとんど日立製作所により決められ運ばれたことは周知の事実であるが、合併後、日立製作所による勝田町役場新築寄付をはじめ、警察署、東石川小学校、津田小学校などの新築寄付、廃止を予定されていた枝川小学校の改造存置などが行なわれた。さらに道路整備もその一環としてすすめられ、国鉄に約3万5000坪を寄付するなどの諸策が展開された。

茨城県史 市町村編1

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