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湊町発達史に快風丸の記事

昭和3年6月に発行された「湊町発達史」(國井通太郎著)に快風丸の記事がありました。
三隻建造された大船のことを快風丸一隻の話としてまとめています。また、「義公は樺太の志があった」と蝦夷地探検の目的が記されています。

義公と湊
快風丸、義公の事業の中で特筆すべきものは大船製造のことであって、快風丸という長さ27間、幅9間、横60挺立、帆柱17間という当時まれに見る大船であった。寛文11年に長崎において銀335匁5分にて船具を購入し、貞亨3年南部邉へ出帆の命ありとの記録によると、寛文年中に造られたものらしい。船は元禄元年2月3日那珂湊を出帆し、12月27日帰湊したとあって、その以前にも2回出帆したが、2回とも風浪のため途中より引き返したとのことであるから、あるいは貞亨中に出帆の命を受けた船と同一でなかったか、とにかくにも公は大船を製造して蝦夷地に渡航せしめ、何時かの目的を達せんとした。有北紀聞には義公は樺太に志があったと簡単に記してある。公にいかがなる大志があったかは知らぬが、蝦夷地と交易をなし、同時に内地を観察せしめたことは船員の覚書によって明らかである。されば少なくとも快風丸の蝦夷航行は殖産の薦め、交易の薦めであったとみられている。これに兼ねて蝦夷の状況を究め他日の雄園に資せんとせられたと想われる。交易上得るところは少なかったが、その志は大であった。
快風丸が那珂湊を出帆するとき、風激しく藩士立花某は出帆を延ばされんことを諫められたが、義公はこれを聴かなかったので、立花氏は先乗りをなし縄を解いて岸を離るること数町。転覆して溺死した。これより12月朔日ごとに餅を水に投じ立花某を弔うた。これが川浸し餅と呼ばれているものである。」

湊町発達史

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