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水戸射爆撃場の歴史5

毎年多くの来園者が訪れる国営ひたち海浜公園をはじめとする常陸那珂地区は、戦後はアメリカ軍の水戸対地射爆撃場として、戦前は日本陸軍飛行学校として、江戸時代は千々乱風伝説が伝わる場所でした。
そんな歴史を紹介します。(勝田市史料Ⅴ 昭和57年1月発行から内容を再編しました)

水戸飛行場の特攻基地化

水戸飛行場

常陸教導飛行師団

 昭和1944年(1944)2月、米海軍機動部隊は、中部太平洋における日本海軍最大の基地であるトラック島を17日に急襲して潰滅させ、23日にはサイパン島を中心とするマリアナ諸島の航空基地を襲って潰滅させた。米軍のマリアナ諸島攻略作戦の開始が近いものと判断された。マリアナ諸島は本土空襲のためにB29を展開するのにもっとも適切な条件をそなえていた。
 陸軍は本土特に東京周辺地域の防空体制の強化を急ぎ、3月8日、京浜地区の防空専任航空部隊である飛行第10師団を新編した。飛行第10師団は、その隸下および指揮下に戦闘機約150機から成る実戦部隊を持っていたが、それだけでは兵力不足であった。そこで、実施学校教官やテスト・パイロットなどの操縦員で実戦部隊を編成し、空襲時には臨時に飛行第10師団長の指揮下に入って防空戦に従事することとされた。これらの学校などで編成する部隊は「東二号」部隊と呼ばれた。明野陸軍飛行学校水戸分校で編成された「東二号」部隊は常陸飛行隊という名称であり、戦闘機約15機から成り、水戸飛行場に位置した。
 6月15日、米軍はサイパン島に上陸し、同日中国の成都を基地とするB29が北九州を初空襲した。さしせまった情勢のもとで陸軍は各実施学校を教導飛行師団に改編した。水戸分校は常陸教導飛行師団となった。
 常陸教導飛行師団に改編されたのちは教育修了と同時に実戦部隊所属となった。この改編で水戸飛行場は出撃基地を兼ねるようになった。

特攻戦術の背景

 陸特の航空部隊はもともと大陸作戦を目的としていた。飛行機の性能・設備も乗員の訓練も洋上作戦のことをほとんど考慮していなかった。海軍航空部隊の攻撃目標がもっぱら航空母盛を中心とする機動部隊などの艦隊に向けられていたので、陸軍地上部隊の対戦相手である上陸部隊やその補給物資をのせた輸送船団の攻撃は陸軍航空部隊が行うほかなくなったのである。この任務は陸軍航空部隊の能力を越えていた。ここに陸軍航空部隊が特攻戦術をとるに至った大きな理由のひとつがあった。
戦技教育の教官・助教がすでに実戦部隊の経験のないものであり、戦技教育の水準は大幅に低下した。戦技の未熟な操縦員を第一線に出すとなれば、体当りによる特攻攻撃以外の戦法はなかった。1944年夏にはこの速成の戦技教育もまだ修了していない航空士官学校57期生・特別操縦見習士官1期生などが作戦部隊に編入された。
 以上のような経過をたどって、水戸飛行場は事実上の特攻要員養成基地と化し、フィリピンのレイテ島への米軍上陸とともに、そのまま特攻隊の編成・出撃基地に転化した。

一宇隊と殉義隊

 1944年10月20日、米軍はレイテ島に上陸した。日本の大本営はレイテ決戦を呼号し、この作戦を「天王山」と称した。10月25日、レイテ沖で店隊決戦を挑んだ日本の連合弱隊は再起不能の敗北を喫した。この日、海軍の神風特別攻撃隊が出撃し、初めての特攻攻撃をおこなった。
 海軍神風特別攻撃隊の出現は、その奇襲的効果をもって米海軍を狼狽させた。その戦果は11月2日に大本営から発表され、陸軍中央部もまた特攻攻撃に力をそそぎはじめた。
 沖繩戦の持攻隊を編成したのち、1945年4月、常陸教導飛行師団は、米軍艦載機の来襲を避け、海岸の水戸飛行場から内陸の群馬県新田飛行場に移った。1945年7月、本土決戦にそなえて、常陸教導飛行師団は飛行第22戦隊を編成し、明野教導飛行師団が編成した飛行第21戦隊と合わせて、第20戦闘飛行集団に改編された。飛行第112戦隊は岐阜に移動しそこで敗戦を迎えた。
…続く

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