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水戸射爆撃場の歴史4

毎年多くの来園者が訪れる国営ひたち海浜公園をはじめとする常陸那珂地区は、戦後はアメリカ軍の水戸対地射爆撃場として、戦前は日本陸軍飛行学校として、江戸時代は千々乱風伝説が伝わる場所でした。
そんな歴史を紹介します。(勝田市史料Ⅴ 昭和57年1月発行から内容を再編しました)

戦時下の水戸飛行場

水戸飛行学校

新兵器の実験射爆撃場

 水戸飛行場はたんなる飛行場ではなく射爆撃場を伴っていた。この射爆撃場は、戦技教育を目的とする水戸陸軍飛行学校の演習場でもあったが、同時に陸軍航空本部直轄の陸軍航空技術研究所が開発した新兵器の実験に使われてきた。この陸軍航空部隊の演習用および実験用射爆撃場であったという実績が、戦後の米空軍の対地射爆撃場として接収される最大の原因となった。
新兵器の実験は、予測されなかった大事故を引起こしがちであり、現に相模湾で実験中の無線誘導弾が熱海の旅館に突入するという事故なども発生したが、水戸射爆撃場での実験についてはこの種の大事故の発生は伝えられていない。
1945年2月16日、17日の2日間にわたり、関東各地の飛行場は米機動部隊の艦載機群の攻撃を受けた。硫黄島上陸作戦の前提としての航空撃滅戦が展開されたのであった。
 2日間の来襲機は延2000機以上であった。

B29対策の研究

 アメリカが超重爆撃機B29の開発を進めているという情報は対米開戦前から日本にも入っていた。
 1941年2月中立国にあった日本の通信社からの外電は、アメリカが大規模な日本本土空襲を意図しているというアメリカ政府高官や軍首脳の言明を伝えてきた。つづいて、2月18日に試験飛行中のボーイング新型爆撃機が墜落したという情報が入ってきた。陸軍は開発中のB29がすでに試験飛行の段階に入ったものと判断し、航空本部の調査班の陣容を強化し、B29の性能に関する情報の収集に本腰をいれはじめた。
 B29による本土空襲の可能性が強まってきたので、1943年夏、陸軍ではB29対策委員会を設置し、陸軍の総力をあげてB29対策を進めることになった。対策には情報収集および判断のほか、迎撃戦闘機に関すること、電波兵器に関すること、高射砲に関することなどの事項があった。

明野陸軍飛行学校分校の設立

 B29対策の最大の課題は対B29戦闘機の開発と装備であった。特にB29のすぐれた性能を考えると、夜間および悪天候時の爆撃が予想され、夜間戦闘機の開発が急がれた。しかし、新機種の開発には時間を要するので、当面現用機の転用または改修が行われた。
 B29対策を重視した陸軍は、防空戦闘に従う乗員を養成教育する必要を痛感し、1943年8月、明野陸軍飛行学校分校を前渡村の水戸飛行場に設置した。水戸分校の設置にともない、これまで水戸飛行場にあった水戸陸軍飛行学校は仙台に移転し、仙台陸軍飛行学校と改称した。
 水戸分校は防空戦闘、具体的には対B29戦闘を目的とする戦闘機操縦者の養成教育を目的とした。しかし、実際に装備することができた戦闘機は、一式、二式(鍾馗)、二式複座という現用の各戦闘機であったので、装備機の性能上から、高々度戦闘の教育はほとんど実施できず、夜間戦闘の教育も旧式な内容のものが多かった。
 陸軍の対B29防空戦闘対策はまったく泥繩式であった。対B29戦闘機用の新機種も電波兵器も完成しないのに、まず乗員教育用の学校が設置されたので機材なしの教育が開始され、したがって教育の成果はあがらなかった。1944年4月、機上用の電波兵器が完成していない段階で、機上電波兵器の運用および操作の教育をおこなうことを目的として、電波兵器練習部教育部の第一教育隊が水戸分校と浜松陸軍飛行学校に設置された。同年9月になって、飛行師団による電波誘導機を使用する迎撃の研究演習が行われ、不十分ながら機上電波兵器を利用しての夜間迎撃戦闘の実用化の見通しが立った。すべて順序が逆であった。
…続く

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